肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

海援隊50周年ハイブリッドコンサート日本橋三井ホール20230401 その4

先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。

前回の続きです。

 

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15分ほどの休憩時間が終わり、金八先生の授業を思わせるチャイムが鳴ると、中牟田氏と千葉氏がアコースティック・ギターを携え、登場し、第2部が始まりました。

武田鉄矢氏は現れず、中牟田氏がボーカルを取って歌ったのは「自画像」。

マイナーコードの典型的なフォークソングですが、なかなか良い曲でした。

また、武田鉄矢氏に負けず劣らず、中牟田氏はなかなか歌がうまかったです。

 

曲が終わるころに武田鉄矢氏が現れ、曲の紹介をし、また面白くも長いトークが始まりました。

中牟田氏のお母さんの話になり、結構繊細で病弱な人だったそうです。

ある日、中牟田氏のお母さんと武田鉄矢氏が偶然二人っきりになった時、不吉なものを感じたのか、心配そうな顔をして、「ミョーなことに誘わんでね!」と話したそうです。

千葉氏のお父さんはとても物分かりの良いお父さんで、何でも理解して許してくれ、お母さんがフォローに回るような家庭だったそうです。

千葉氏は東京出身ではありますが、「転勤族」の子どもだったらしく、各地を転々とし、高校一年の頃に福岡に移り住んできたのだそうです。

当時としては高価でオシャレな革のカバンを持っていて、顔もかわいらしいタイプだったので、道を歩いていた時に、絡まれて腹を殴られ、「カッコつけてんじゃねえよ!」とディープな博多弁で言われ、「これは、博多弁を覚えないと、ここでは生きていけないなあ」と痛感し、クラスで一番強い同級生に一所懸命博多弁を教わったのだそうです。

対して、武田鉄矢氏は少年時代から妙に人から恐れられるタイプだったそうで、高校に入学した当時、3年生の先輩たちに囲まれ、「おたくは、何年だぶっとりますか?」と言われたそうです。

まあ、16歳で入学した時に、20歳過ぎと間違われるほどだったそうです。

 

高校時代からの本当に長い付き合いの3人だったのですね・・・

 

そんなこんなで、高校時代はこの3人でバンドの練習をし、卒業すると3人そろって家出をして、音楽をやって身を立てることを目指して、東京へ向かったのだそうです。

その直前、武田鉄矢氏のお母さんは、何かを感じ取っていたのか、その頃、しきりに何度もこう言ったそうです。

「千葉と中牟田とだけは、これからもずっと仲良うせねばあかんぞ!お前が誘っとったんだろ?!最後まで仲良うせねば、つまらんぞ!」

この言葉は強烈に心に残っていたのだそうです。

中牟田氏のお母さんとはとても対照的で、武田鉄矢氏のお母さんは、とてもバイタリティ溢れ、野生の血が濃い人だったそうです。

武田鉄矢氏が6歳の時に、頭を撫でながら、

「おまえを生むつもりは無かった」などと言い、6歳ながら、武田鉄矢氏はガックリきたそうです。

クリスマスイブにサンタクロースが来ないと嘆くと、

「うちは今夜は浄土真宗やけん」

と返したり、本当に言葉が巧みで、芝居ッ気があるというか、演劇性のある人だったそうです。

 

武田鉄矢氏のお母さんのエピソードで、会場はかなり盛り上がりました。

 

このような豪快でエキセントリックなお母さんでしたが、武田鉄矢氏のお父さんが亡くなり、お母さんが家にこもりっきりになったので、親孝行がてら、鹿児島の霧島温泉に連れ出したことがあったそうです。

お母さんはたいそう喜び、温泉の湯舟に肩まで浸かり、とても気持ちよさそうにしていたそうです。

ふとお母さんの脱ぎ捨てた浴衣を見ると、お父さんの位牌が入っていたそうです。

「母ちゃん、父ちゃんも連れてきたのか?」

「そうだよ、父ちゃんも寂しがるけん、連れてきて、お前の親孝行見せてやろうたったい」

武田鉄矢氏はジーンときて、

「父ちゃんは喜びよるかね?」と聞くと、

お母さんは少し考え、

「あ?聞いてみるか?」とか言って、何をするかと思ったら、脱衣場に戻って、位牌を持ち出し、湯舟のお湯に何度も浸けたのだそうです。

「ほーら、どうだ、気持ちよかたい!」

まあ、何とも芝居ッ気のあるというか、本当に面白いお母さんだったようです。

 

しかし、この話にはまだ続きがあるようで、温泉を楽しんで、博多に帰った瞬間、こう言ったそうです。

「鉄矢!大事なもの忘れた!」

慌てて、宿に電話すると、宿の主人は烈火のごとく怒り、こう言ったそうです。

「おたくですか?位牌を忘れたのは?」

「あれから、うちの宿の露天風呂には、気味悪がって誰も入らんようになりましたよ!」

「一番のお客さんが入ったら、湯舟の上をクルクルと位牌が立って回りよるけん!

茶柱が立つとは聞いたことがあるけど、位牌が立つとは聞いたことないけん!」

と皮肉を言われたそうです。

お母さんが電話に変わり、「すいません!すいません!クロネコヤマトの宅急便で送り返してくれませんか?」と謝り、その後、何を言うかと思ったら、

「あそこは、猫がくわえて走るけん、早かですものね!」

とくだらない冗談を言う始末でした。

まあ、何ともエピソードに事欠かない、本当に面白いお母さんだったようです。

そして、そのお母さんのことを歌った、海援隊最初の大ヒット曲「母に捧げるバラード」の演奏が始まるのでした。

 

(次回に続く)

 

 

 

 

エリック・クラプトン LIVE AT BUDOKAN 20230419 その2

先日2023年4月19日、初めてエリック・クラプトン氏の日本武道館でのライブに行ってきました。

前回の続きです。

 

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再び、エリック・クラプトン氏は、ストラトキャスターのギターを抱え、エレクトリック・セットに戻りました。

ジョージ・ハリスン氏と共作した「Badge」を演奏し、なかなか素晴らしいギター・プレイを聴かせてくれた後、「Wonderful Tonight」をしっとりと聴かせてくれました。

僕も好きな素晴らしいバラードで、観客がスマホの灯りを照らして、会場は神秘的な光景となりました。

ただ、桑田佳祐氏はラジオで、この曲と「Cocaine」はあまり好きではないようなことを言っていました。

ジョージ・ハリスン氏の元妻のパティー・ボイド氏と結婚したばかりの頃に書いた曲だとのことで、熱狂的なビートルズファンの桑田佳祐氏としては、こういった経緯からあまり印象が良くないのでしょう。

 

2階席でしたが、ステージを正面に観ることが出来て、なかなか良い席でした。ぴあのメンバーに入っていたからでしょうか。

 

その後、エリック・クラプトン氏が敬愛するロバート・ジョンソン氏の「Cross Road Blues」「Little Queen Of Spades」を立て続けに歌い、そのまま「Layla」に突入しました。

この「Layla」のイントロが始まった時、僕は何とも言えぬ感動が背筋を走り、鳥肌が立ってしまいました。

やっぱりクラプトンと言えば、ベタですが、この「Layla」です。

しかも、レコードと同じ原曲通りのアレンジでプレイしてくれて、本当に良かったです。

ただ、心なしか、レコードよりも若干テンポが遅い感じはしました。

しかし、ほとんど自らがプレイし、力強いボーカルを聴かせてくれました。

その間、もう一人のギタリストのドイル・ブランホール氏が、隣でエリック・クラプトン氏のギタープレイをチラチラと見ていたのが印象的でした。

メイン・パートが終わった後の、延々と続くピアノ演奏まで聴かせてくれたのも、うれしかったです。

曲が終わり、エリック・クラプトン氏は深々とお辞儀をして、メンバー全員が退場しました。

 

まさに、このステージで演奏していました!

 

そして、アンコールとなって、再び登場し、何を演奏してくれるかと思ったら、ジョー・コッカーの「High Time We Went」で、キーボードのポール・キャラック氏がキーボードを演奏しながら、ボーカルを担当していました。

このような流れは最近定番となったそうですが、桑田佳祐氏もラジオで言っていましたが、最後のアンコールの曲を自分が歌わずにメンバーに歌わせるのは、一般的にかなり珍しいことなのだそうです。

桑田佳祐氏も、「オレも自分のライブで、最後のアンコールは誰かに歌ってもらおうかな・・・」と言っていました。

ポール・キャラック氏のボーカルはとても上手くて迫力がありました。

 

また近いうちに来日してくれることを切に祈ります!最高のライブでした!

 

曲が終わった後、エリック・クラプトン氏はまた深々とお辞儀をして、メンバー全員とステージの前方に出てきて、肩を組み、再び深々とお辞儀をしました。

退場がてら、ベースのネイザン・イースト氏が「お疲れさんでした!」とカタコトの日本語で気さくに挨拶して去っていったのが印象的でした。

 

とても大満足のライブでした!

78歳と高齢ですが、また日本に来て、武道館でライブをやってくれることを切に願います。

 

エリック・クラプトン氏の生い立ちから現在までを詳細に書いてあり、全てのメンバーの紹介、そして、エリック・クラプトン氏がリリースしてきた全てのディスコグラフィー(アルバムのみ)も載っていて、とても充実した内容のツアー・パンフレットでした。

 

また、桑田佳祐氏がラジオでいろいろと面白いエリック・クラプトン氏のエピソードを話してくれました。

エリック・クラプトン氏は家庭環境が複雑だったせいか、イケメンでスーパースターなのに、とても劣等感が強い性格なのだそうです。

そして、地道な信条があるのだそうです。

「ステージに立っている時は、自分が最高だと思え。ステージから降りた時は、自分は最低だと思え」

このような地道な信条を持って、ギタープレイの向上に切磋琢磨してきたのでしょう。

 

また、日本に来ると必ず原宿の「福よし」というカツ丼店に行って、大好物のチキンカツ定食を食べるのだそうです。

ぜひ、行ってみたいと思います。

 

 

エリック・クラプトン LIVE AT BUDOKAN 20230419 その1

先日2023年4月19日、初めてエリック・クラプトン氏の日本武道館でのライブに行ってきました。

私は洋楽アーティストが大好きで、ポール・マッカートニー氏やローリング・ストーンズなど、有名なアーティストのライブはそこそこ行っているのですが、4月21日で武道館公演100回目を迎えたエリック・クラプトン氏のライブはなぜか行けていませんでした。

 

初めてのエリック・クラプトン氏のライブ!とても感動しました!

 

初めてのライブの感想を私なりにお伝えしたいと思います。

ライブが始まる前に、大行列に並んでグッズ(ツアー・パンフレットとタオル)を購入し、20分ほど前に客席に座って、スタンバっていました。

 

グッズ売り場は予想通り大行列でした。僕は必ずツアー・パンフレットは買うようにしています。エリック・クラプトン氏の生い立ちから現在までのバイオグラフィーに基づいた話や、メンバーの写真やコメントなど載っていて、なかなか充実した内容でした。

 

そして、19時定刻ちょっと過ぎくらいに、会場が暗くなり、メンバーと共にエリック・クラプトン氏が現れました。

軽くお辞儀をしたかと思うと、すぐに演奏が始まりました。

 

1曲目は「Blue Rainbow」、インストゥルメンタルの知らない曲でした。

私は桑田佳祐氏のラジオ「桑田佳祐やさしい夜遊び」を毎週聴いているのですが、桑田佳祐氏はエリック・クラプトン氏の大ファンだそうで、3週に渡ってエリック・クラプトン特集をやっていて、なかなか有益な情報を教えてくれました。

このようにインストゥルメンタル曲で始まるのは、長いキャリアの中で初めてだそうで、しかもこの曲は今年1月に亡くなった同じギター・レジェンドのジェフ・ベック氏の曲なのだそうです。

 

続いて、お馴染みの1989年リリース「Journey Man」からの「Pretending」を力強いイントロのリフを駆使して演奏が始まり、演奏後、歓声を送る観客に「サンキュー!」とフレンドリーに返していました。

デレク・アンド・ザ・ドミノス「いとしのレイラ」収録の「Key To the Highway」、ブルースの名曲「I'm Your Hoochie Coochie Man」と続いた後、レゲエっぽいイントロが流れ始め、エリッククラプトン氏初期の代表曲「I Shot The Sheriff」が始まりました。

レゲエでありながら、迫力あるギタープレイを披露してくれました。

 

2階席でしたが、ステージを真正面に観ることが出来て、なかなか良い席でした。

 

その後、アコースティック・セットとなり、エリック・クラプトン氏はドラムの前のイスに座って、演奏を始めます。

エリック・クラプトン氏が敬愛する伝説のブルースマンロバート・ジョンソンの「Kind Hearted Woman Blues」、スタンダードナンバーで、アンプラグド・ライブでも披露された「Nobody Knows You When You're Down And Out 」と続き、エリック・クラプトン氏に多大な影響を与え、10年前に亡くなったJ.J. Cale氏の「Call Me the Breeze」が演奏されました。

クロスロード・ギター・フェスティバルでも演奏され、亡くなった友人たちへの思いをライブで伝えることが多くなったそうです。

 

その後、トラディショナル・ソングで、なんとなくアイルランドの民謡っぽいテイストの「Sam Hall」と続き、名曲「Tears In Heaven」が演奏されました。

相変わらず素晴らしいバラードの名曲ですが、なんとなく歌い方が昔と変わってきたかなあと感じました。あくまでも私の感じたことですが。

途中の間奏で、キーボードのポール・キャラック氏が、エリック・クラプトン氏の親友で、昨年(2022年)亡くなったゲイリー・ブルッカー氏の名曲「A Whiter Shade of Pale(青い影)(Procol Harumの名曲です)」のフレーズを弾いたのは、とても粋で驚きでした。

 

アコースティック・セットの最後の曲は、「Kerry」。

2021年の「Lady In The Balcony: Lockdown Sessions」でも演奏されたこの曲は、長年ツアー・スタッフとして貢献してくれ、同年亡くなったケリー・ルイス氏に捧げられた曲なのだそうです。

 

桑田佳祐氏がラジオで言っていたことなのですが、エリック・クラプトン氏はギターを弾くとき、3本の指しか使わず、必ず親指を立てるのだそうです。

また、歌う時にマイクから口を大きく離して歌うクセがあるらしいとのことでした。

双眼鏡で、よく見てみましたが、やはり親指は常時立っており、歌う時にマイクから口を結構話して歌っているのが確認できました。

さすが、桑田佳祐氏。

長年の大ファンということで、観察力は鋭いです。

 

長くなりましたので、後半は次回のブログで!

 

 

心房細動 新たな不穏な予兆

先日、(今年2023年)4月26日に、東京医科大学病院循環器内科のS先生の診察と、心電図検査を実に約3ヶ月ぶりに受けました。

前回の続きです。

 

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前回1月の診察と検査では、「経過は順調です」「心電図ですが、全く問題無いですね」と、高評価でした。

しかし、この3ヶ月間、実は体調不良が続き、人知れず悩んでいました。

昨年末にコロナの予防接種を受けたことによる体調不良は徐々に和らいできましたが、それでも仕事の激務によるストレスや、季節の変わり目の影響などで、心身ともに慢性的な不調に見舞われていました。

ずっと全身の倦怠感が続き、とても疲れやすく、4月中頃には突然急性胃腸炎にかかり、高熱を出して寝込んでしまいました。

(ライブに行ったブログを出し続けていましたが、実はずっと体調は思わしくなかったのです)

 

また、何より心配だったのは、iPhoneの「ヘルスケア」アプリで、心肺機能の最大酸素摂取量に関して、ずっと50歳代の中で「平均より下」という表示になっていることでした。

2年位前までは、平均あたりだったのですが、だんだんと数値が下がっていき、この2年間は「平均より下」のレベルとなっていました。

それが、今年に入ってからみるみる数値が下がっていき、さらにその下の「低い」というレベルに落ちてしまいました。

ヤバいと思い、少し運動したり歩くようにしたら、「平均より下」に回復したのですが、心肺機能が低いことに変わりはありません。

これは、やっぱり心房細動の影響なのか、S先生に確かめたいため、このことを洗いざらい話したいと思っていました。

 

iPhoneアプリ「ヘルスケア」での心肺機能の最大酸素摂取量の、この半年間の推移です。
明らかに低下傾向にあります。

 

しかし、心電図検査の段階で、気になることがありました。

心電図検査は、電極のケーブルを身体の主に胸と手足に取り付けて測定します。

約1分経つと、「終わりです」と言われて、取り外されるのですが、今回は「もう少し続けますね・・・」と言われて、倍の2分くらい検査したのでしょうか。

これは僕の経験から、検査のデータがあまり良くないときに起こることです。

 

検査が終わり、名前を呼ばれてS先生の診察室に入っていくと、S先生はモニター画面を見てキーボードを打ちながら、「どうですか・・・あれから調子の方は・・・」と、ちょっと元気のない浮かない感じで訊いてきました。

その表情は明らかに、ちょっと暗く無表情でした。

この場合、僕の経験から、ちょっとヤバいのです。

 

S先生に言われて、僕はこの3か月間の体調不良のこと、だるくて疲れやすいことなどを詳細に説明しました。

そして、iPhoneの「ヘルスケア」アプリで、心肺機能が「平均より下」で、低下していることを、iPhone画面を見せながら、伝えました。

すると、S先生は、どういう時に息切れしやすいのか、と質問してきたので、「やっぱり階段を昇る時やちょっと走ったりした時です」と答えました。

そして、最近は体重は増えてきたのか訊いてきたので、むしろ体重は減っていると答えました。

体重はこの4ヶ月くらいで、実は4~5kgくらい減っているのです。

身体のむくみがないかどうか、足のふくらはぎのあたりをつかまれ、胸に聴診器も当てられました。

そして、モニター画面に目を移し、心臓の画像データや動画などを真剣に確認していました。

 

とりあえず、血圧や心拍数は問題ありませんでした。

 

しかし、S先生はこう言いました。

「今回の心電図の検査結果は特に問題無いし、これらの画像データなども特に問題無いと思うのですよ」

「検査結果としては、特に目立った異常は無いと見られるのですよ」

しかし、こう言いながらも、その表情は無表情で、続けてこう言いました。

「でも、手術をしてからもうすぐ1年になりますし、一度本格的な検査をしてみましょう」

「とりあえず、この後すぐに採血検査に行ってください。心臓の異常がある場合はすぐにわかりますので。異常が見つからなかったら、特に連絡はしません」

そして、約2ヶ月後の6月28日に、心エコー検査と、24時間ホルター心電図検査を受けることになったのでした。

 

診察の後、採血検査に行ってきました。
問題が無ければ、連絡はしないと言っていたので、連絡がこないことを祈るばかりです。

 

異常は無いとはいうものの、体調は思わしくなく、今回の検査の状況や先生の話し方や表情にも心配な要素があるので、僕としてはとても心配です。

 

約2ヶ月後となりますが、また検査結果を報告いたします。

 

YouTubeもやっておりますので、ぜひこちらもご覧になってください。

 

youtu.be

海援隊50周年ハイブリッドコンサート日本橋三井ホール20230401 その3

先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。

前回の続きです。

 

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「あんたが大将」の演奏が終わり、再び武田鉄矢氏の面白いトークが始まりました。

武田鉄矢氏は、還暦を迎えたころ、心臓の大動脈弁の異常という症状で、1ヶ月ほど大学病院に入院したことがあったそうです。

初めての大病による入院ということもあり、とても不安だったそうですが、入院してみると、その広いフロアの患者全員が同じ「大動脈弁の異常」の病気だったそうで、とても安心し、自分だけじゃないだと、心強かったそうです。

 

しかし、まあ入院していると、様々な変わった光景に出くわすことがあるそうです。

ある朝、検尿して検査室に向かう痛風患者の群れを見ることがありました。

痛風患者たちは、足が痛いため、皆同じ歩き方をしていたそうです。

検尿の紙コップを右手に持って高く掲げ、片足を突き出して前に進み、もう一方の足がそれについてくる、まるで、その光景はマイケル・ジャクソンの「スリラー」を思わせる光景でした。

そして、反対方向から、今度は医者の先生たちが同じようにコーヒーが入った紙コップを右手に持って高く掲げて歩き、紙コップと紙コップが交差する姿に、病院の日常の姿を感じたのだそうです。

 

そんな中、入院しているうちに、同病仲間というか友達が出来たそうです。

86歳になるおばあちゃんで、とても気丈で、かつユーモアのある方だったそうです。

そのおばあちゃんとのやり取りがなかなか面白い。

鉄矢氏「おばあちゃん、人間は何で年を取るのでしょうかね・・・?」

おばあちゃん「そりゃあ、あんた、若いうちに死ななかったからだよ!」

鉄矢氏「おばあちゃん、4回も手術したのに、いつも肝が据わっていて、もう怖いものなんて無いんでしょう?」

「そんなことねえよ!ドキドキしているよ!だって86歳になったの初めてだもの」

そして、武田鉄矢氏がいよいよ退院する時、おばあちゃんはエレベーターホールまでわざわざ車椅子に乗って見送ってくれたのだそうです。

そして、「手出しな!」と言って、退院祝いとして、武田鉄矢氏の手のひらになにやら小さな物を乗せてくれました。

それは一粒のアーモンドチョコでした。

「昨日孫が来てな。『ばあちゃん、あげる』って言って、くれたもんだよ」

「種入ってるから、ちゃんと出すんだよ!」(会場大爆笑)

そして、おばあちゃんは武田鉄矢氏の顔をまじまじと見つめ、こう言いました。

「一期一会だ!あんた有名人だから、書いてほしいものがある」と言って、色紙を取り出しました。

鉄矢氏「ええ、いいですとも!『ハナさん、がんばれ!』とでも書きましょうか?」

おばあちゃん「いや、サインの横にぜひ書いてほしい言葉があるんだ」

鉄矢氏「何ですか?」

おばあちゃん「僕は死にません!」(会場大爆笑)

(1991年放映のドラマ「101回目のプロポーズ」で、武田鉄矢氏扮する主人公が、ヒロインの浅野温子氏扮するマドンナに向かって叫んだ有名なセリフ)

 

贈る言葉」大ヒットの頃の海援隊でしょうか?
生き生きしているようで、楽しそうです。

 

こんな面白いエピソードを話した後、武田鉄矢氏は真面目な顔になり、こう言いました。

「病気もまた人生の1ページですよ」

「病気になったら、しっかり病人になりましょう。むやみに健康な人をうらやましがるのはやめましょう。病気は病気で面白いものですよ」

この言葉に僕も大きく同意します。

僕も様々な大病を患って、数多く入院を経験しましたが、これはこれで本当に貴重な経験でした。

ずっと健康なままの人にはわからない世界が本当に数多くあります。

「健康の有難み」を本当に実感できるのは、大きな病気を経験した人にしか出来ないでしょう。

そんな話の後、歌ってくれたのは、後期高齢者のための歌「ダメージの歌」でした。

これは現在発売しているCDには入っていないようですが、なかなか面白く、うならせる歌詞で、ぜひCD化してほしいものです。

 

曲の演奏の後、再びトークに戻り、藤子不二雄氏の話になりました。

武田鉄矢氏は本当に交友関係が広いのか、当時「ドラえもん」などで活躍していた藤子不二雄氏にもとても可愛がられていたそうです。

当時、「ドラえもん」が初めて映画化されることとなり、藤子不二雄氏に呼び出され、主題歌はぜひ海援隊にお願いしたいと、直々に依頼されたそうです。

以降、ドラえもんの映画の主題歌は、全て海援隊が作詞作曲演奏して、担当することになったそうです。

その初めての映画の主題歌「少年期」を演奏しました。

なかなか心に染み入る、癒される曲で、中牟田氏と千葉氏のギターに合わせ、珍しく武田鉄矢氏が鉄琴のような楽器を演奏して、「ピーン・ポーン・パーン・・・」と心地よい音を奏でさせ、なかなか良かったです。

 

日本橋三井ホールの窓から眺めた風景。
レトロで風格のある日本橋三越の建物が眼前に見えます。

 

演奏が終わり、再び武田鉄矢氏のトークが始まりました。

武田鉄矢氏は、どこに行っても、このような軽妙で面白いトークを繰り広げるのですが、ある夏の日、苗場スキー場のゲレンデで演奏の合間に、また爆笑トークを繰り広げていました。

会場はいつものように大爆笑ですが、一人だけ30代をちょっと過ぎたと思われる真面目そうな青年が突然こう叫んだのだそうです。

「武田さん、面白い話もいいんですが、真面目な話も少しはしてください!」

武田鉄矢氏は、この青年の言葉に、相当ショックを受けたようで、ずっと引きずっていたのだそうです。

武田鉄矢氏は1980年放映のドラマ「3年B組金八先生」で一世を風靡し、以降どうしても「金八先生」のイメージが強く残ってしまっています。

特に今の若い人は、ネットフリックスやBlu-rayソフトなどで、「3年B組金八先生」を観る人が多いらしく、この傾向が強いのだそうです。

そこで、武田鉄矢氏が考えたのが、尊敬する宮沢賢治氏の作品を朗読することでした。

宮沢賢治氏も金八先生と同じように、岩手県で教師をやっていて、勤務の後は生徒の稲作指導もやっていたそうです。

その時の模様を宮沢賢治氏が記した「稲作挿話」を、武田鉄矢氏が情感たっぷり込めて、朗読し始めました。

そして、朗読が終わり、第1部が終了となり、15分ほどの休憩時間となりました。

 

第2部は、次回のブログでお話します。

 

 

 

 

 

 

 

 

海援隊50周年ハイブリッドコンサート日本橋三井ホール20230401 その2

先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。

前回の続きです。

 

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贈る言葉」自体、とても久しぶりに聴きましたが、ライブで聴くのは初めてで興奮しました。

武田鉄矢氏が語った、歌詞を作ったエピソードとは裏腹に、とてもさわやかでそよ風のように心地よく頬を撫でてくれるような感じでした。

「3年B組金八先生」放映時は、小学5年生でしたが、とても懐かしく当時を思い出しました。

 

曲が終わり、再び武田鉄矢氏の長いトークが始まりました。

武田鉄矢氏率いる海援隊は、「母に捧げるバラード」で一躍スターダムにのし上がり、1974年末の紅白歌合戦に出場を果たしたのですが、その翌年からなぜか人気はがた落ちとなり、コンサートをやっても、どこもガラガラ、地方の小さな会場を巡業する日々を送り、ひどい時は数人を前に演奏するような始末でした。

事務所のスタッフに給料を払うことも出来ず、印税は底を尽き、翌年1975年の年末は奥さんと一緒に居酒屋の皿洗いのアルバイトをしていたそうです。

まさに「冬の時代」が続き、半ばやけくそ気味に作ったのが、あの「あんたが大将」だったそうです。

「あんたが大将!」「あんたが社長!」「あんたが頭取!」などと、相手をひたすら持ち上げるフレーズが続く曲ですが、当時、没落した状態の中で、自分よりうまくいっていた人たちから散々自慢話などを聞かされたようです。

「わかったよ!」「あんたはスゴイよ!」「あんたが一番だよ!」という、半ばイヤミというか、悔しさを込めて、作った曲なのだそうです。

 

 

若き日の海援隊の記者会見でしょうか。

 

まあ、そんな曲ですが、スマッシュヒットとなり、僕も当時この曲を知っていましたし、同級生たちがしょっちゅうふざけた調子で歌っていたのを思い出します。

そのおかげか、映画に出演する話が持ちかけられました。

あの寅さん(男はつらいよ)で有名な山田洋次監督の1977年放映の作品「幸福の黄色いハンカチ」です。

主演:高倉健倍賞千恵子渥美清など豪華なキャストが登場する同映画ですが、桃井かおりの相手役の準主役である「花田欽也」役に抜擢されます。

北海道が舞台の同映画ですが、その時のエピソードが語られました。

武田鉄矢氏演ずる欽也は、カニを食べ過ぎてしまい、車を運転しながら激しい下痢を催してしまいます。

我慢できず、路肩に車を停め、ティッシュ箱を片手に、草むらへ突進し、排便するシーンを演じます。

ところが、山田洋次監督は、どうしても武田鉄矢氏の演技が気に入らないのか、何度もやり直しを命じます。

何度も何度も同じ演技を繰り返して、武田鉄矢氏は辟易してしまいます。

とうとう山田洋次監督は激怒して、かなり厳しい口調で、武田鉄矢氏にこう言うのでした。

「何で、ふざけて演技するんだ!大好きな恋人の前で君は情けないことに下痢を催して走り回るんだよ?そういう時は自分が情けなくて、泣きながら走り回るもんだよ!」

「観客というのは、俳優が泣きながら演技する姿を見て、笑うものなんだよ!」

武田鉄矢氏は、こういうシーンはお笑い芸人のように、ウケを狙ってふざけて演技するものだと思ってやってきたそうですが、この言葉を聞いてやっと目が覚めたのだそうです。

再び、何度も演技を繰り返しているうちに、まず高倉健氏が笑い出しました。

山田洋次監督はそれを見て、これだ!と思い、午前8時から始まったこのシーンのロケは、やっと昼過ぎにOKが出たのだそうです。

 

人気ドラマ「ダ・カーポしませんか?」で共演した観月ありさ氏からの花束

 

疲れ果て、呆然と立ち尽くす武田鉄矢氏の肩に、後ろから軽くパンチをしてきた高倉健氏が横に立ち、こう言ったそうです。

「スゲエよなあ・・・!鉄ちゃん!監督は朝からお前しか見てないようだぜ!」

「ちがいますよ!健さん!僕はきっと監督から嫌われているんですよ!だから、何度も何度もやり直しさせて、キツく怒ったりするんですよ!」

「でもよお・・・あの監督の評判聞いたけど、監督は見込みがあると思ったヤツしか、シゴかないそうだぜ?」

高倉健という人は、こうやって出来ない人間を励ましてくれる、本当に優しい人だったのだそうです。

一方、共演の恋人役だった桃井かおり氏からはこう言われたそうです。

「アンタ、犬ね」

「荒川の土手あたりで、ご主人の言うことを何でも聞いて飛び回る、バカ犬みたい」

しかし、こんなことを言われても、当時の武田鉄矢氏は全く気にならなかったそうです。

桃井かおり氏演ずる朱美が運転する車を追いかけている時に、山田洋次監督から、「飛べ!」と言われて、臆することなく、すぐに、高く積まれた草むらに頭から突っ込んだのだそうです。

武田鉄矢氏にとって、俳優としての師匠、ひいては人生の師匠と呼べる人は、「高倉健」と「山田洋次監督」だと、しみじみと語っていました。

 

長くなりましたので、続きは次回のブログで!

 

 

 

 

海援隊50周年ハイブリッドコンサート日本橋三井ホール20230401 その1

先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。

僕は特に海援隊のファンではなく、音楽もほとんど聴いたことは無かったのですが、妻が武田鉄矢氏の大ファンで、ぜひ観たいということで、日本橋三井ホールまで行ってきました。

 

地下鉄日本橋駅直結の「コレド室町1」というかなり立派で素敵なショッピングビルの4階にこのホールはありました。

会場はさほど広くは無く、TOHOシネマズなどの比較的大きな映画館の規模でしたが、なかなか豪華な会場でした。

ステージの奥に巨大なモニターがあり、海援隊の昔から現在までの画像をアトランダムに流し続けていました。

 

アトランダムにモニターに海援隊の懐かしい画像が映し出され、なかなか良かったです。

 

そして、金八先生を思わせる学校の授業が始まるチャイムのような音が鳴り、ほぼ定刻の時間に、海援隊の3人がステージに現れました。

 

現在もツアー中とのことで、今後海援隊のライブに参加予定の方は、ネタバレになってしまうので、ご注意ください。

 

テレビや映画ではよく観ていた武田鉄矢氏ですが、実際に観た感じは、とても背が小さく、ほぼ白髪になっていて、顔もだいぶ年を召された感じであり、「ああ、変わったなあ・・・」というのが、正直な印象でした。

 

まず、このコンサートの構成ですが、2部構成で、間に15分間の休憩がありました。

海援隊の歌を演奏するのがメインですが、歌と歌の間に、武田鉄矢氏のトークが入ります。

普通は歌と歌の間のトークというものは、歌のエピソードを紹介したり、ちょっとした近況を紹介するようなサブ的な意味合いが強いのですが、海援隊の場合は、それがまるで逆でした。

武田鉄矢トークショー」さながら、武田鉄矢氏のトークがメインで、間に歌を演奏するような感じでした。

それだけ、武田鉄矢氏のトークは非常に面白く、絶妙な笑いを誘うのでした。

ほぼトークがメインで、それも濃密で絶妙なトークなので、これらをすべてご紹介すると、1万文字を軽く超えてしまいそうなので、いくつかのブログに分けて、今後ご紹介したいと思います。

 

今回のブログでは、第1部をダイジェスト的にご紹介したいと思います。

 

武田鉄矢氏は、最近まで、人気ドラマ「ダ・カーポしませんか?」のメイン・キャラクターを演じていたそうで、その時のエピソードを話してくれました。

毎回、人が死んでいく暗いドラマで、人が死ぬたびに、武田鉄矢氏演じるキャラクターが、「イフ・ヒーイズダイ・ユー アー サバイバー! 」と叫ぶのですが、毎回この言葉を叫んでいたはずなのに、「あれ・・・あの言葉何だっけ?」と、メンバーに確認するのが笑えました。

氏としては、とても暗いドラマで、最近最終回となり、「やっと終わってくれた・・・!」という心境だったらしく、ああ、「俳優でも作品によって思い入れが違うのかなあ」と思いました。

 

ドラマの撮影が終わり、野に放たれた鳥のように、解放感に満ち溢れた気持ちで、再び海援隊のライブに戻ったのが、とてもうれしかったとしみじみと実感を込めて言っていました。

網走から少し行ったところの「大空町」という田舎町だったらしく、ライブ終了後、その田舎町の片隅の寂しい居酒屋で食事をしていたところ、そこのおかみさんから「ユー アー サバイバー !」と言われたのがうれしかったそうです。

それを言われて、「確かに自分たちは『サバイバー』だ、50年生き残ってきた、浮き沈みの大きいこの業界で」としみじみと実感したそうです。

 

デビューする前は、バンド名はその時代を反映して「ヤング・ラディーズ」などという名前になりそうなところ、武田鉄矢氏は坂本龍馬が大好きだったので、なんとか「海援隊」という今のバンド名にしてもらったそうです。

そして、デビュー当時の心境が表わされたデビュー曲「風の福岡」を演奏しました。

 

ロビーにて。窓の向こうに見えるのは日本橋三越本店です。

 

海援隊は、1971年にデビューして、1973年リリースの「母に捧げるバラード」が脚光を浴びて、一躍スターダムにのし上がり、1974年末の紅白歌合戦に初出場を果たします。

しかし、翌年から低迷し、コンサートの客席はガラガラとなり、地方の小さな田舎町で、ひどい時は十数人の観客を相手に演奏したり、聴く力のない老人を相手に演奏したり、大変な時代を過ごしてきたようで、その時代のエピソードを数多く話してくれました。

 

四国の山間の、人口500人ほどの村に呼ばれて、演奏したことがあったそうです。

海援隊が演奏する片隅で、老齢の村長さんが感激のあまり涙を流しながら、ステージに入ってきて、ぜひ海援隊のメンバーの横で、村人たちに話をさせてほしいと言ってきたそうです。

その村長さんが言った言葉がなかなか面白かったです。

「こんなに多くの人たちが集まるのを見たのは、これが初めてです!お・・・(嗚咽)、海援隊の皆さん!とりあえず動ける者たちは全てここに集まりました!よろしくお願いします!」

 

ある時は、山形県の真冬の田舎町のスキマだらけの老朽化した公民館で演奏したことがあったそうですが、その時の観客はなんと中学生と思われる学生たち12人!

皆手をつないで演奏を聴いていたそうで、とても寒いから手をつながずにはいられなかったのだろうと、武田鉄矢氏は「すまねえな、寒かろう?」と言いました。

すると、リーダー格と思われる女の子がひとこと言いました。

「いえ、ちげえます。誰か帰ろうとしたから、あわてて手をつないで阻止しようとしたのです」

 

このような売れない時代のコンサートのエピソードをたくさん語ってくれたのですが、興味深かったのが、海援隊最大のヒット曲「贈る言葉」の歌詞の元となったエピソードでした。

デビュー間もないころ、いつもコンサートに来てくれてファンになってくれた女性がいて、2~3ヶ月付き合ったことがあったそうです。

しかし、「正体」がバレて、ある日、福岡最大の繁華街の中洲のたくさんの人がごった返す飲み屋に呼び出され、突然の別れを切り出されます。

突然のことに武田鉄矢氏は心が混乱し、「あんたとは別れとうなか!」と腕をつかんで叫んだため、相手の女性はこう言いました。

「大きい声出すよ!」

この声を聞き、甘い恋の季節が終わったことを悟った武田鉄矢氏は、去り行く彼女の後姿を見ながら、その場で号泣したそうです。

しかし、氏は彼女の後を追うことはしなかった。追いかけたら、歌にならなくなる。

「追いかけないと、歌になるんです」と氏は一人納得するように、かみしめながら言いました。

家に帰り、自分の部屋の勉強机に突っ伏して泣いていると、後ろから母が言いました。

「どげんしたか?」

「女にフラれた!」

これを聞いて、母はすごすごと出ていくが、また戻ってきて、こう励まして言ったそうです。

「鉄矢!覚えとけ!女はみんな若いうちは違う顔しとるが、年取るとみんな同じ顔になるぞ!」

当時は若かったので、言っている意味がわからなかったそうですが、60を過ぎ、70を過ぎて、その言葉を実感するようになったそうです。

これらのエピソードが元になったのが、あの永遠の名曲「贈る言葉」なのだそうです。

言われてみれば、わかるような気がしますが、なかなか意外ですね。

 

アコースティックギターのイントロが流れ、「贈る言葉」の演奏が始まりました。

 

予想通り、かなり長くなりそうなので、続きは次回のブログで!