2021年3月9日、日本を代表するドラマーの村上”ポンタ”秀一が70歳で亡くなりました。
ポンタ氏は、山下達郎氏の1977年のアルバム「SPACY」や1978年のライブアルバム「IT'S A POPPIN' TIME」にドラマーとして参加し、70年代の音楽シーンを山下達郎氏をはじめ、様々な気鋭のミュージシャンを支えてきた「戦友」だったそうです。
2021年4月11日(日)、山下達郎氏のレギュラーラジオ番組「山下達郎の楽天カードサンデー・ソングブック」(TOKYO FM)では、「極私的 村上“ポンタ”秀一 追悼」特集が放送されました。
山下達郎氏は、放送中に、文春オンラインに掲載された自身のロングインタビューについて触れ、「このラジオではポンタのゆかりの音楽を流すだけで精いっぱいで、いろいろな当時の話については、文春オンラインの僕のインタビューをぜひ読んでほしい」と言っていました。
そこで、ネットに掲載されている文春オンラインの山下達郎氏のロングインタビューを読みましたが、これがなかなか興味深かった。
確かに長いインタビューですが、3パートに分かれており、さらに5つのセクションに分割されているので、とても読みやすかったです。
今回は、その中の最初のパートの部分を簡単にご紹介したいと思います。
1⃣ドラマーと言ったら、ポンタ
村上”ポンタ”秀一氏は、1970年代は売れっ子スタジオミュージシャンだったそうです。
ドラマーと言ったら、ポンタで、1日に6~7か所のスタジオをタクシーで回っていた、スタジオミュージシャンの「スター」でした。
1回当たりの録音が3時間2曲セットで、それを朝の9時から夜11時まで繰り返していたそうです。
ポンタ氏と知り合った当時の達郎氏はまだシュガーベイブをやっていた時期で、まだまだ下積みの駆け出しの頃でした。
当時の東京のスタジオミュージシャンは、どこかエキセントリックで排他的だったそうです。
いわゆる「アッパーミドル(中上流所得層)」で、慶応や明治学院などの私立付属高出身の人種が多かったらしく、そのような人種にしか、いい楽器は買えなかったそうです。
日本のロックの基盤を作ったといわれる「はっぴいえんど」から「キャラメル・ママ」・「ティン・パン・アレー」への流れを作った細野晴臣氏・松本隆氏・大瀧詠一氏・鈴木茂氏も、「お坊ちゃま」然りとした独自の排他性を持っていたそうです。
その頃、サラリーマンの初任給が45,000円の時代に、ギブソンのレスポールは32万円、一番安いテレキャスターが17万円、ドラムのランディックなどは50~60万円もしていたのですから、ミュージシャンになるのは本当に大変だったのですね。
達郎氏は、まだ売れる前だったので当然金はなく、ギターはモーリス・アリア、ドラムはパールの一番安いやつを使うのが精一杯だったとのことです。
2⃣アルバム「SPACY」への参加
しかし、そのような、まだ駆け出しの頃の達郎氏に対して、ポンタ氏は差別することは一切なかったそうです。
素晴らしいテクニシャンだけど、受容度が高く、本当にやさしい人で、体調を崩してからも、死ぬまで後輩の面倒を見ていたそうです。
その頃は、吉田美奈子氏・大貫妙子氏、村松邦男氏とともに、コーラス隊を組んでいた達郎氏で、端から見れば単なる「コーラスボーイ」だった達郎氏が「ライブでドラムを叩いてほしい」とお願いした時も、快く応じてくれて、裏表が一切ない人物だったそうです。
その後、1976年の吉田美奈子氏の名盤「FLAPPER」に「永遠に」という曲を提供し、この曲のドラムをポンタ氏が演奏することによって、密なコミュニケーションが始まり、1977年の達郎氏のセカンドアルバム「SPACY」への参加につながったとのことでした。
アルバム「SPACY」のセッションチームは、達郎氏いわく「ドリームチーム」だったそうで、ベース:細野晴臣氏、ドラム:ポンタ氏、キーボード:佐藤博氏、ギター:松木恒秀氏という錚々たるメンバーでした。
細野さんは、この頃よく椅子の上にあぐらをかいて座ってベースを弾いていて、それを見た松木氏がポンタ氏に向かって「お前生意気だぞ!って言ってこい」と命じたというエピソードは、なかなか面白かったです。
長くなりましたので、パート2は次回ということで。
なお、2021年4月18日(日)、14:00~14:55に放送される、山下達郎氏のレギュラーラジオ番組「山下達郎の楽天カードサンデー・ソングブック」(TOKYO FM)では、「極私的 村上“ポンタ”秀一 追悼」特集の第2弾が放送される予定ですので、ぜひ聴いてみてください。