先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。
僕は特に海援隊のファンではなく、音楽もほとんど聴いたことは無かったのですが、妻が武田鉄矢氏の大ファンで、ぜひ観たいということで、日本橋三井ホールまで行ってきました。
地下鉄日本橋駅直結の「コレド室町1」というかなり立派で素敵なショッピングビルの4階にこのホールはありました。
会場はさほど広くは無く、TOHOシネマズなどの比較的大きな映画館の規模でしたが、なかなか豪華な会場でした。
ステージの奥に巨大なモニターがあり、海援隊の昔から現在までの画像をアトランダムに流し続けていました。
そして、金八先生を思わせる学校の授業が始まるチャイムのような音が鳴り、ほぼ定刻の時間に、海援隊の3人がステージに現れました。
現在もツアー中とのことで、今後海援隊のライブに参加予定の方は、ネタバレになってしまうので、ご注意ください。
テレビや映画ではよく観ていた武田鉄矢氏ですが、実際に観た感じは、とても背が小さく、ほぼ白髪になっていて、顔もだいぶ年を召された感じであり、「ああ、変わったなあ・・・」というのが、正直な印象でした。
まず、このコンサートの構成ですが、2部構成で、間に15分間の休憩がありました。
海援隊の歌を演奏するのがメインですが、歌と歌の間に、武田鉄矢氏のトークが入ります。
普通は歌と歌の間のトークというものは、歌のエピソードを紹介したり、ちょっとした近況を紹介するようなサブ的な意味合いが強いのですが、海援隊の場合は、それがまるで逆でした。
「武田鉄矢トークショー」さながら、武田鉄矢氏のトークがメインで、間に歌を演奏するような感じでした。
それだけ、武田鉄矢氏のトークは非常に面白く、絶妙な笑いを誘うのでした。
ほぼトークがメインで、それも濃密で絶妙なトークなので、これらをすべてご紹介すると、1万文字を軽く超えてしまいそうなので、いくつかのブログに分けて、今後ご紹介したいと思います。
今回のブログでは、第1部をダイジェスト的にご紹介したいと思います。
武田鉄矢氏は、最近まで、人気ドラマ「ダ・カーポしませんか?」のメイン・キャラクターを演じていたそうで、その時のエピソードを話してくれました。
毎回、人が死んでいく暗いドラマで、人が死ぬたびに、武田鉄矢氏演じるキャラクターが、「イフ・ヒーイズダイ・ユー アー サバイバー! 」と叫ぶのですが、毎回この言葉を叫んでいたはずなのに、「あれ・・・あの言葉何だっけ?」と、メンバーに確認するのが笑えました。
氏としては、とても暗いドラマで、最近最終回となり、「やっと終わってくれた・・・!」という心境だったらしく、ああ、「俳優でも作品によって思い入れが違うのかなあ」と思いました。
ドラマの撮影が終わり、野に放たれた鳥のように、解放感に満ち溢れた気持ちで、再び海援隊のライブに戻ったのが、とてもうれしかったとしみじみと実感を込めて言っていました。
網走から少し行ったところの「大空町」という田舎町だったらしく、ライブ終了後、その田舎町の片隅の寂しい居酒屋で食事をしていたところ、そこのおかみさんから「ユー アー サバイバー !」と言われたのがうれしかったそうです。
それを言われて、「確かに自分たちは『サバイバー』だ、50年生き残ってきた、浮き沈みの大きいこの業界で」としみじみと実感したそうです。
デビューする前は、バンド名はその時代を反映して「ヤング・ラディーズ」などという名前になりそうなところ、武田鉄矢氏は坂本龍馬が大好きだったので、なんとか「海援隊」という今のバンド名にしてもらったそうです。
そして、デビュー当時の心境が表わされたデビュー曲「風の福岡」を演奏しました。
海援隊は、1971年にデビューして、1973年リリースの「母に捧げるバラード」が脚光を浴びて、一躍スターダムにのし上がり、1974年末の紅白歌合戦に初出場を果たします。
しかし、翌年から低迷し、コンサートの客席はガラガラとなり、地方の小さな田舎町で、ひどい時は十数人の観客を相手に演奏したり、聴く力のない老人を相手に演奏したり、大変な時代を過ごしてきたようで、その時代のエピソードを数多く話してくれました。
四国の山間の、人口500人ほどの村に呼ばれて、演奏したことがあったそうです。
海援隊が演奏する片隅で、老齢の村長さんが感激のあまり涙を流しながら、ステージに入ってきて、ぜひ海援隊のメンバーの横で、村人たちに話をさせてほしいと言ってきたそうです。
その村長さんが言った言葉がなかなか面白かったです。
「こんなに多くの人たちが集まるのを見たのは、これが初めてです!お・・・(嗚咽)、海援隊の皆さん!とりあえず動ける者たちは全てここに集まりました!よろしくお願いします!」
ある時は、山形県の真冬の田舎町のスキマだらけの老朽化した公民館で演奏したことがあったそうですが、その時の観客はなんと中学生と思われる学生たち12人!
皆手をつないで演奏を聴いていたそうで、とても寒いから手をつながずにはいられなかったのだろうと、武田鉄矢氏は「すまねえな、寒かろう?」と言いました。
すると、リーダー格と思われる女の子がひとこと言いました。
「いえ、ちげえます。誰か帰ろうとしたから、あわてて手をつないで阻止しようとしたのです」
このような売れない時代のコンサートのエピソードをたくさん語ってくれたのですが、興味深かったのが、海援隊最大のヒット曲「贈る言葉」の歌詞の元となったエピソードでした。
デビュー間もないころ、いつもコンサートに来てくれてファンになってくれた女性がいて、2~3ヶ月付き合ったことがあったそうです。
しかし、「正体」がバレて、ある日、福岡最大の繁華街の中洲のたくさんの人がごった返す飲み屋に呼び出され、突然の別れを切り出されます。
突然のことに武田鉄矢氏は心が混乱し、「あんたとは別れとうなか!」と腕をつかんで叫んだため、相手の女性はこう言いました。
「大きい声出すよ!」
この声を聞き、甘い恋の季節が終わったことを悟った武田鉄矢氏は、去り行く彼女の後姿を見ながら、その場で号泣したそうです。
しかし、氏は彼女の後を追うことはしなかった。追いかけたら、歌にならなくなる。
「追いかけないと、歌になるんです」と氏は一人納得するように、かみしめながら言いました。
家に帰り、自分の部屋の勉強机に突っ伏して泣いていると、後ろから母が言いました。
「どげんしたか?」
「女にフラれた!」
これを聞いて、母はすごすごと出ていくが、また戻ってきて、こう励まして言ったそうです。
「鉄矢!覚えとけ!女はみんな若いうちは違う顔しとるが、年取るとみんな同じ顔になるぞ!」
当時は若かったので、言っている意味がわからなかったそうですが、60を過ぎ、70を過ぎて、その言葉を実感するようになったそうです。
これらのエピソードが元になったのが、あの永遠の名曲「贈る言葉」なのだそうです。
言われてみれば、わかるような気がしますが、なかなか意外ですね。
アコースティックギターのイントロが流れ、「贈る言葉」の演奏が始まりました。
予想通り、かなり長くなりそうなので、続きは次回のブログで!