先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。
前回の続きです。
15分ほどの休憩時間が終わり、金八先生の授業を思わせるチャイムが鳴ると、中牟田氏と千葉氏がアコースティック・ギターを携え、登場し、第2部が始まりました。
武田鉄矢氏は現れず、中牟田氏がボーカルを取って歌ったのは「自画像」。
マイナーコードの典型的なフォークソングですが、なかなか良い曲でした。
また、武田鉄矢氏に負けず劣らず、中牟田氏はなかなか歌がうまかったです。
曲が終わるころに武田鉄矢氏が現れ、曲の紹介をし、また面白くも長いトークが始まりました。
中牟田氏のお母さんの話になり、結構繊細で病弱な人だったそうです。
ある日、中牟田氏のお母さんと武田鉄矢氏が偶然二人っきりになった時、不吉なものを感じたのか、心配そうな顔をして、「ミョーなことに誘わんでね!」と話したそうです。
千葉氏のお父さんはとても物分かりの良いお父さんで、何でも理解して許してくれ、お母さんがフォローに回るような家庭だったそうです。
千葉氏は東京出身ではありますが、「転勤族」の子どもだったらしく、各地を転々とし、高校一年の頃に福岡に移り住んできたのだそうです。
当時としては高価でオシャレな革のカバンを持っていて、顔もかわいらしいタイプだったので、道を歩いていた時に、絡まれて腹を殴られ、「カッコつけてんじゃねえよ!」とディープな博多弁で言われ、「これは、博多弁を覚えないと、ここでは生きていけないなあ」と痛感し、クラスで一番強い同級生に一所懸命博多弁を教わったのだそうです。
対して、武田鉄矢氏は少年時代から妙に人から恐れられるタイプだったそうで、高校に入学した当時、3年生の先輩たちに囲まれ、「おたくは、何年だぶっとりますか?」と言われたそうです。
まあ、16歳で入学した時に、20歳過ぎと間違われるほどだったそうです。
そんなこんなで、高校時代はこの3人でバンドの練習をし、卒業すると3人そろって家出をして、音楽をやって身を立てることを目指して、東京へ向かったのだそうです。
その直前、武田鉄矢氏のお母さんは、何かを感じ取っていたのか、その頃、しきりに何度もこう言ったそうです。
「千葉と中牟田とだけは、これからもずっと仲良うせねばあかんぞ!お前が誘っとったんだろ?!最後まで仲良うせねば、つまらんぞ!」
この言葉は強烈に心に残っていたのだそうです。
中牟田氏のお母さんとはとても対照的で、武田鉄矢氏のお母さんは、とてもバイタリティ溢れ、野生の血が濃い人だったそうです。
武田鉄矢氏が6歳の時に、頭を撫でながら、
「おまえを生むつもりは無かった」などと言い、6歳ながら、武田鉄矢氏はガックリきたそうです。
クリスマスイブにサンタクロースが来ないと嘆くと、
「うちは今夜は浄土真宗やけん」
と返したり、本当に言葉が巧みで、芝居ッ気があるというか、演劇性のある人だったそうです。
このような豪快でエキセントリックなお母さんでしたが、武田鉄矢氏のお父さんが亡くなり、お母さんが家にこもりっきりになったので、親孝行がてら、鹿児島の霧島温泉に連れ出したことがあったそうです。
お母さんはたいそう喜び、温泉の湯舟に肩まで浸かり、とても気持ちよさそうにしていたそうです。
ふとお母さんの脱ぎ捨てた浴衣を見ると、お父さんの位牌が入っていたそうです。
「母ちゃん、父ちゃんも連れてきたのか?」
「そうだよ、父ちゃんも寂しがるけん、連れてきて、お前の親孝行見せてやろうたったい」
「父ちゃんは喜びよるかね?」と聞くと、
お母さんは少し考え、
「あ?聞いてみるか?」とか言って、何をするかと思ったら、脱衣場に戻って、位牌を持ち出し、湯舟のお湯に何度も浸けたのだそうです。
「ほーら、どうだ、気持ちよかたい!」
まあ、何とも芝居ッ気のあるというか、本当に面白いお母さんだったようです。
しかし、この話にはまだ続きがあるようで、温泉を楽しんで、博多に帰った瞬間、こう言ったそうです。
「鉄矢!大事なもの忘れた!」
慌てて、宿に電話すると、宿の主人は烈火のごとく怒り、こう言ったそうです。
「おたくですか?位牌を忘れたのは?」
「あれから、うちの宿の露天風呂には、気味悪がって誰も入らんようになりましたよ!」
「一番のお客さんが入ったら、湯舟の上をクルクルと位牌が立って回りよるけん!
茶柱が立つとは聞いたことがあるけど、位牌が立つとは聞いたことないけん!」
と皮肉を言われたそうです。
お母さんが電話に変わり、「すいません!すいません!クロネコヤマトの宅急便で送り返してくれませんか?」と謝り、その後、何を言うかと思ったら、
「あそこは、猫がくわえて走るけん、早かですものね!」
とくだらない冗談を言う始末でした。
まあ、何ともエピソードに事欠かない、本当に面白いお母さんだったようです。
そして、そのお母さんのことを歌った、海援隊最初の大ヒット曲「母に捧げるバラード」の演奏が始まるのでした。
(次回に続く)