先日2023年4月1日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを初めて観に行ってきました。
今回もライブの第2部の終盤のもようをお伝えします。
再び「幸福の黄色いハンカチ」のロケのエピソードが始まりました。
武田鉄矢氏は言いました。
自分の名前が全国区になったのは、確かに「3年B組金八先生」だと。
しかし、その原点となったのは、やっぱり「幸福の黄色いハンカチ」だったのだそうです。
「3年B組金八先生」の最終回で、一人一人生徒を呼び出して、その生徒の想い出を語るという有名なシーンがありますが、あれは「幸福の黄色いハンカチ」ひいては山田洋次監督から教えられた様々な教えがヒントだったのだそうです。
そして、忘れ難きは、日本を代表する高倉健氏だったそうです。
この映画は順撮りで、最後に高倉健氏扮する島勇作が、元妻が住む夕張の家に帰っていくというシーンで終わり、撮影が終了するという段取りでした。
山田洋次監督としては、スッキリと晴れた快晴の青空のもと、元妻の家の鯉のぼりの竿にたくさんの黄色いハンカチが風にはためくシーンで終わりたいと考えていました。
しかし、なかなか監督が狙うスッキリと晴れ渡る日が訪れず、有珠山の噴火などもあり、何日も何日も待たされたそうです。
高倉健氏は、演技の気持ちが切れないようにするため、監督から中止というアナウンスが無い限り、とても寒い中、元妻の家に帰る前に立っている場所に、ずっと立ちっぱなしだったそうです。
一方、武田鉄矢氏と桃井かおり氏はカメラの切り替えで映るため、外の現場にいなくても良いということで、近くの温かい部屋でずっと待っていたのですが、毎日毎日黄色いハンカチを見ていたため、感動も何もなくなってしまったのだそうです。
そして、数日後、午後になって、急に監督の狙っていた澄み渡る青空と、風にはためく黄色いハンカチが実現し、本番の撮影をすることとなりました。
しかし、何度も黄色いハンカチを見過ぎていたため、武田鉄矢氏は涙を流さなくてはいけないシーンのところ、涙が全く出ず、とても困ってしまったのだそうです。
ところが、山田洋次監督はそういうところは優しい人で、それを察して、
「無理して泣かなくてもいいよ。涙が自由自在に出ることが俳優の条件みたいに自慢する人がいるが、あれは嘘だ。ちょこっと涙が光ればいいんだ。」
と言ってくれたそうです。
一方、桃井かおり氏はさすがにプロで、しっかりと涙を流してキレイに合わせていました。
そんな中、高倉健氏が歩き出して、振り返り、ゆっくりと手を差し伸べて、こう言いました。
「これでお前たちともお別れだな・・東京へ帰っても身体に気を付けてしっかりと暮らすんだぞ」
この言葉を聞き、握手をして、さすがに武田鉄矢氏はボロボロと涙を流したのだそうです。
高倉健氏という人は、そんなことをしてくれる、とてもやさしい俳優だったのだそうです。
「私くし今日あるは、この人たちのおかげです。山田洋次監督と高倉健さん」
「そして、ライバルになってくれた桃井かおりとの日々は、わが青春の宝でございます。」
「『幸福の黄色いハンカチ』のロケが全て終わった後、台本の裏に感想を書きました。『山の子が初めて海を見たような出逢いがありました』山田洋次監督と高倉健、まるで海のような人たちでありました」
「あの出来事があったころからこそ、(3年B組金八先生の)15歳の共演者たちに、思いっきり気持ちの良い想い出を残してやろう、と思い、あの有名な生徒一人ずつを呼び出して、一人ずつに想い出を語ってあげるシーンが生まれました」
「僕の役者人生は、あの『幸福の黄色いハンカチ』から始まりました。そして、会場の若い人たちに『頑張ってください』という気持ちを込めて、最後の歌のこの歌を送ります」
そして、最後の曲となった「新しい人へ」の演奏が始まりました。
演奏が終わり、武田鉄矢氏は盛大な声援を背に受けながら、メンバーと共にステージを去っていきました。
しばらくして3人そろって、ステージに現れ、感極まった感じで、武田鉄矢氏のスピーチが始まりました。
最近、メンバー3人でいろいろと話し合ったのだそうです。
もう年齢も年齢であり、ここから先は運に任せていこうと。
そして、いつまでも新しい曲を作って挑戦し続ける姿勢は持っていようと。
老いていくことを否定するのではなく、肯定し、「奥の細道」ならぬ「フォークの細道」を極めていきたいとのことでした。
そして、こう言いました。
「今がいちばん3人の仲が良いです」
「若い元気な時は揉めるものなんですけど、物に掴まって歩くようになると、他人の手の有難さがわかるようになるものです」
「きっとこの50年間でいちばん3人の仲が良い時期になったと思っています。50年間メンバーを変えずにやってきたのは、自分たちの他にはアルフィーくらいしかいないんじゃないか、と思っています。」
「キャリアではビートルズに勝ったと思っています。ヒット曲と音楽性では負けますけど。」
「自分たちのキャリアが他の同級生(シンガー)たちとかなり違うことはわかっています。そのことは私がお芝居をやっていこうと決心した時から始まっています。」
「人の心を演じる役者をやりながら、歌も歌っていく。周りにはそういう人が一人もいない。でも、それがオレたちらしい、生きがいのように感じて生きてきました。」
そのような思いを歌にした「誰もいないからそこを歩く」をアンコールの最後の曲として、歌い始めました。
夜汽車の走る効果音に合わせた、自分たちの生き方を誇りに思うという内容の歌詞で、50年間紆余曲折を経て、生き残ってきた海援隊のメンバーたちの生き様を表していました。
演奏が終わり、3人深々とお辞儀をして、挨拶をして、ちぎれんばかりに手を振りながら、ステージを後にしたのでした。
武田鉄矢氏の長いトークが多く、しかも内容が濃くて、とても面白いため、7回にわたる長い連載となってしまいました。
ツアーはこれからも続いていくようで、僕と妻はこんどは9月2日の関内ホールで行われるライブにも観に行くことになりました。
僕は決して海援隊のファンではなかったのですが、このライブを観に行って、武田鉄矢氏ひいては海援隊の大ファンになってしまいました。
皆様もご興味がありましたら、ぜひ観に行ってみてはいかがでしょうか。