肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第2章 

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第2章「母へのレクイエム」となります。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

1⃣ テレビの可能性と限界

坂本龍一氏は、2010年4月からNHKEテレで、「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」に出演していました。

主に小・中・高校生に生徒として出演してもらい、坂本龍一氏がメインの講師となって、毎回扱うジャンルや作曲家などのテーマを決めて、ゲスト講師も招き、レクチャーやワークショップを行うのです。

YMO細野晴臣氏や高橋幸宏氏もゲスト講師として数回参加したこともあり、毎回番組の最後に三人でいろいろな曲を演奏するのが見ものでした。

僕はこの番組が大好きで毎回見ていました。

 

しかし、本書を読んで、実は坂本龍一氏が人知れずかなりの苦労もしていて、またテレビ局側への腹立たしさがあったことを初めて知りました。

テレビというのは視聴率を取るために、あらかじめ理想的な結論というか青写真を決めておき、それに沿った台本を作り込んでくることが常なのだそうです。

よって、出演させる子どもたちも、テレビ局側のいうことをきちんと聞いてくれる「いい子」を選んでしまうのだそうです。

「聞き分けの良い子」ばかりを揃えてしまうために、どこか「予定調和」というか「結論ありき」となってしまい、面白くもなんともなくなってしまったのだそうです。

坂本龍一氏はこういうアプローチが大嫌いで、生理的な拒否反応が出てきてしまうため、ある時は台本を作り込んできた制作陣に対して、「ふざけんな、あるがままにやらせろ!」とカンカンに怒ってしまったそうです。

いつの頃からか、僕もテレビが本当につまらないと思うようになり、ほとんど観なくなってしまいました。

今では民放はおろかNHKでさえもそれほど観ることはなくなり、YouTubeNetflixなどばかり観ています。

坂本龍一氏は「ある意味では日本の劣化を感じた」と言っていましたが、組織優先で動く日本社会の劣化が至る所で進んでいるように思えてなりません。

 

2⃣ 大貫妙子さんとの思い出

坂本龍一氏は、大貫妙子氏の初期の作品「Grey Skies」「SUN SHOWER」をはじめ、RCA最後の作品「カイエ」に至るまで、全ての作品にアレンジャー及び演奏者として参加していました。

近年では2010年11月にコラボレーション・アルバム「UTAU」を二人で共作し、ツアーも行い、僕も同年11月にグリーンホール相模大野で開催されたライブを観に行っています。

大貫妙子氏は、元々シュガーベイブ山下達郎氏と活動したり、細野晴臣氏や高橋幸宏氏などとも親しく、坂本龍一氏の元妻の矢野顕子氏とも親しいので、坂本龍一氏にとっては昔の音楽仲間の一人だったのだろうという認識しかなかったのですが、本書を読んで驚きました。

2010年11月坂本龍一氏と大貫妙子氏がコラボした「UTAU」のCD、DVD、ライブ会場で特別販売していたツアーブックです。

 

坂本龍一氏は本書の中で、20代前半の一時期、大貫妙子氏と一緒に暮らしていたことをはっきり言っていたのです。

ただ、坂本龍一氏に別の相手が出来たために、一緒に暮らしていた部屋を出て行ってしまったのだそうです。

その当時、大貫妙子氏が発表したのが「新しいシャツ」という曲で、その曲の歌詞を聞くと、つい泣いてしまうだそうです。

このような経緯があったためか、坂本龍一氏は大貫妙子氏に対してずっと負い目を感じてきたようです。

しかも、大貫妙子氏からはいろいろな面で助けられてきたそうで、それなのにこのような迷惑をかけてしまい、ずっと恩返しをしたいと思っていたのだそうです。

 

また、一緒に暮らしていた当時、よく麻雀をやっていたエピソードにも驚きました。

2人だけでは出来ないので、電話で仲の良かった山下達郎氏に電話して誘うと、達郎氏は練馬にあった実家の軽トラを運転してすぐにやってきたそうです。

もう一人は近所に住んでいた伊藤銀次氏で、4人で雀卓を囲んで、三日三晩徹夜でやることもザラだったそうです。

とても懐かしいと本書で言っていましたが、今となっては「夢の跡」という感じですね・・・

ただ、あの大貫妙子氏のイメージから、麻雀を三日三晩やるようなタイプには全く見えないのですがね・・・