肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その3

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

前回からの続きです。

 

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老害」の話が終わり、武田鉄矢氏はステージからいったん去って行きました。

千葉氏と中牟田氏はその場に残り、前回・前々回とは構成が違って、初めて2人だけのトークとなりました。

(僕が参加したライブの中では初めてでした)

 

まず、千葉氏がボーカルを取って、「グッバイロンリー」という曲を二人で演奏しました。

この曲は僕は初めて聴いた曲でした。CDにも入っていませんでした。

千葉氏のボーカルはとてもライトでさわやかな歌声で、清々しさを感じさせるフォークソングといった感じでした。

曲が終わると、千葉氏が口火を切って話し始めました。

昔からイーグルスが好きだったらしく、レコードやCDを集めていたらしいのですが、最近CDショップに行ったら、イーグルスの5枚組CDボックスがあったとのことでした。

「こんなCDボックスがあったんだ!これは買っておかないと!」

そう思った千葉氏は喜び勇んで、すぐに購入し、ルンルン気分で帰宅したそうです。

一通り聴いた後、CDラックに収納しようとしたら、なんとすでに同じものがあったのだそうです。

結局、そのCDボックスは仕方が無いので、中牟田氏にあげたとのオチでした。

 

話が終わると、今度は中牟田氏がボーカルを取って、「自画像」を二人で演奏しました。

この曲は前回・前々回共に歌われた曲で、マイナーな曲調ながらとても良い曲でした。

曲が終わると、また千葉氏が話し始めました。

今度はユニクロに行った時の話で、ミック・ジャガーのTシャツがあり、これも喜び勇んで購入したのですが、MサイズのところSサイズを買ってしまったとのことでした。

しかもMサイズの棚の真ん中あたりのTシャツを引き抜いて購入したのに、帰宅してからそれがSサイズだと気づいたとのことでした。

結局、これもまた中牟田氏にあげたとのオチでした。

そんな二人の話に会場はささやかな笑いの渦が起こりましたが、まあ二人としては頑張ったのだと思います。

 

小ぶりな市民会館でしたが、音響はとても良かったと思います。

 

「自画像」の演奏が終わり、武田鉄矢氏が再びステージに帰ってきました。

前回も話していましたが、この曲「自画像」は、中牟田氏が自身の母のことを歌った曲なのだそうです。

病弱なお母さんだったようですが、息子のことをとても心配していたようで、武田鉄矢氏にいつもこう言っていたそうです。

「うちの息子、変なことに誘わないでね・・・」

武田鉄矢氏のお母さんは正反対で、とても身体は丈夫だったようで、

「それぞれにみんなお母さんのタイプは違うし、歌う歌も違うよね」

と言って、デビューして最初に大ヒットした、武田鉄矢氏が自身の母のことを歌った「母に捧げるバラード」の演奏が始まりました。

 

曲が終わると、前回も話していましたが、友人の南こうせつ氏のお母さん、そして大親友らしい吉幾三氏のお母さんの亡くなる時の話をして、また会場は大爆笑の渦に巻き込まれました。

南こうせつ氏のお母さんが死ぬ間際に言った言葉は、

「本当はお父さんのことは好きではなかった・・」

これを聞いた子供たちは愕然とし、長男は

「お母さん、もういいじゃないか!もう冥土にいくんだから」

と狼狽したそうです。

対して、吉幾三氏のお母さんが死ぬ間際に言った言葉は、

「パンツを履く暇が無かった・・」

すでに亡くなっていたお父さんは子どもたちの面倒は全く見なかったくせに、子作りだけは一生懸命だったとのことでした。

 

吉幾三氏は、最近自身のYouTubeで、国会議員の長谷川氏が飛行機の中でとても失礼な不遜な態度をとっていて、スチュワーデスなどをとても困らせていたことを暴露して、長谷川氏を以前から苦々しく思っていた人たちをはじめ、いろいろな人たちに賞賛されました。

武田鉄矢氏がその件について話すことを期待したのですが、まあこういったことはなかなかライブで話すのは難しいでしょうね。

 

続いて、「思えば遠くへ来たもんだ」「新しい人へ」を演奏した後、大きく手を振り、ステージを去って行きました。

しかし、会場のアンコールのコールに応えて、すぐに再登場し、相田みつを氏の「道」を朗読し、「スタートライン」を熱唱しました。

そして、会場はものすごい拍手の渦となり、3人は肩を組んで、大きく手を上げ、深々と頭を下げた後、名残惜しそうに振り向いて手を振りながら、ステージを去って行きました。

 

今回も武田鉄矢氏のトークは絶妙でした。もちろん曲も良かったです。

 

ライブ会場を出ると、たくさんの人がなにやらメンバーたちが出てくるのを待っていたので、僕たちも少し待っていたら、白い普通のバン(日産のノアでした)が建物エントランス前に横付けされました。

すると、ほどなくして私服に着替えた武田鉄矢氏が出てきて、そそくさと乗り込み、続いて中牟田氏も出てきて、同じくすぐに乗り込みました。

ステージ外で見ると、本当に普通の人という感じでした。

千葉氏は出てこなかったので、自身で帰ったのではないかと思われます。

 

今回も本当に楽しいライブでした。

また機会があったら、ライブに行ってみたいと思います。

 

セットリスト

①そんぐふぉおゆう

贈る言葉

③JODAN JODAN

涙そうそう

⑤ダメージの歌

⑥恋不思議

⑦あした天気になれ

⑧グッバイロンリー(ボーカル:千葉氏)

⑨自画像(ボーカル:中牟田氏)

母に捧げるバラード

⑪思えば遠くへ来たもんだ

⑫新しい人へ

アンコール

相田みつを「道」朗読~スタートライン

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その2

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

前回からの続きです。

 

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海援隊の代表曲「贈る言葉」の演奏が終わった後、前回も前々回も演奏した「JODAN JODAN」の演奏が始まりました。

武田鉄矢氏の話によると、この曲は「贈る言葉」(1979年11月リリース)の直前の曲で、「贈る言葉」がリリースされる4ヶ月前にリリースされたのだそうです。

この曲は「贈る言葉」とは全く違うタイプのコミカルな曲調で、歌詞も人間の日常生活によくある恨みつらみや妬み・怒りなどを表した、けっこうネガティブでダークな内容です。

そんなネガティブな内容を、実にコミカルに風刺した感じにしています。

そして、サビの「JODAN!JODAN!JODAN!」の部分を、アルファベットの形通りに腕を動かす振付があります。

武田鉄矢氏によると、当時西城秀樹氏の「YOUNG MAN」が大ヒットしていて、それに対抗して、こういった振付を考え出したのだそうです。

そして、武田鉄矢氏はこうも言いました。

「皆さんお気づきのように、この曲、『贈る言葉』とは全く違うタイプの曲で、とてもマイナーで、こうネガティブな感じの曲なんですが、何かすごく素晴らしいというか代表曲のような曲が出来る前というのは、こんな曲が出来るもんなんですよね・・」

「まあ、この曲が出来たから、次に『贈る言葉』という曲が出来てブレイクしたんだと思っているんですよ」

なるほど・・人生そんなものなのかなあ・・

他のアーティストや作家でも同じようなことを言っていた人がいて、そういうものなのかもしれません。

 

開演前のステージに置かれたメンバーのアコースティックギター

 

涙そうそう」「ダメージの歌」と続いたところで、また武田鉄矢氏のトークが始まりました。

「僕は60歳を少し過ぎたころに、心臓の病気を患って4週間くらい入院したことがあったのですよ。その時に「そうだ病院へ行こう」という曲を作りました」

「70歳を過ぎて、先ほど演奏した『ダメージの歌』を作りました」

「僕はねえ、年相応の曲を作っていきたいし、これからもそうしていきたいのですよ」

「よく他の歌い手さんで、自分の若い頃に作った恋愛の曲を歌ったりする人がいるんですが、やっぱり70代や80代でそういう歌を歌っても、恋愛の歌に聴こえないんですよね」

「『もう、終わーりーだね』って、そのまま足元が崩れて倒れてしまったりしてね」

ある有名なJ-POPのアーティストを揶揄したブラックジョークでしたが、会場は大爆笑でした。

 

「それでね、今度の新曲は『老害』って曲でいこうと考えています!」

会場はまたも大爆笑でしたが、僕は何のことかわかりませんでした。

後で妻に聞いたところ、「ワイドナショー(フジテレビ)」という番組に出演したらしいのですが、その時に話題になったガーシー氏の件についてのことだったようです。

ガーシー氏は自身のYouTubeでいろいろな芸能人をあることないこと言って繰り返し脅迫し、国会議員になったもののこれらのことが悪質だとして、除名処分になったうえ、暴力行為法違反(常習的脅迫)などの罪に問われ、懲役3年、執行猶予5年として有罪判決が確定しました。

そのことにつき、武田鉄矢氏は「ただ、悪口を言っただけなんじゃないの」というようなことを言ってしまいました。

これについて、ゲストだった元AKB48などに所属していた指原莉乃氏の逆鱗に触れて「それは悪口を言っても謝れば済むというような昭和的な考え方ではないのか」「それはある種『老害』だと思います」というようなことを言ったそうです。

今回のステージで、武田鉄矢氏は本件について詳しいことは何も言いませんでしたが、ちょっとこれは「失言」かなあ、と僕も思いました。

ただ、こういったビミョーなことで笑いを取る武田鉄矢氏は大したものだと思いました。

老害」という曲が出来たら、ぜひ聴いてみたいと思います。

 

長くなってしまったので、続きは次回のブログで!

 

 

 

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その1

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

 

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日本橋三井ホール関内ホールのライブともども、あまりにも武田鉄矢氏のトークが面白く、海援隊の曲も気に入ってしまい、妻も機会があればまた行きたいと常々言っていました。

そこへ、ちょうど自宅周辺エリアから近い場所でのライブがあることがわかり、すぐに申し込んで参加することとなりました。

 

今回も武田鉄矢氏のトークを中心に、とても楽しいライブとなりました。

 

今回もほぼ武田鉄矢氏のトークが中心で、正直トークの内容はいつもとそれほど変わらないのですが、やっぱり本人の口から直接聞くと、思わず爆笑してしまいました。

他の方々も何度も参加している方だと思いますが、きっと同じ話でも何度も笑ってしまうのだと思います。

会場全体で爆笑していました。

 

開演時間は午後2時半からですが、ほぼ時間ピッタリに3人がステージに入ってきました。

3人とも70代ですが、元気いっぱいという感じでした。

「やあやあ、みなさんわざわざここまでお越しいただいてありがとうございます。お元気ですか?」

武田鉄矢氏の呼びかけに対して、最前列に座っていた若そうな眼鏡をかけた男性が元気な声で、

「今日は僕の誕生日です!」

と答えたので、

「そうなんだ!ところで何歳になったのですか?」

「43歳です!」

とその男性は答え、そんな感じで会場の観客たちと何気ないやり取りをして、1曲目の「そんぐふぉあゆう」の演奏が始まりました。

 

今回の席は、1階の13列目のまさにど真ん中で、武田鉄矢氏を中心にメンバーの様子がよく見えました。

 

2曲目は海援隊の1980年の最大のヒット曲にして、かの超有名な人気学園ドラマ「3年B組金八先生」の主題歌である「贈る言葉」の演奏が始まりました。

今回は始まりのギターのイントロがいつもと違う感じでしたが、この曲は何度聴いても遠い過去である自分の小学生時代を思い出して、ジーンときてしまいます。

 

曲が終わった後は、毎回話しているこの曲が出来た成り立ちの話となりました。

以前のブログでもお話しましたが、この曲はとてもさわやかなメロディでジーンと来る歌詞ではありますが、実は全然そんなことは無い、若き日の武田鉄矢氏の大失恋の話が元になったとのことでした。

福岡の女性はいい時はとても可愛いのですが、いったん関係性が悪くなると、とてもキツイ性格になり、かなりキツイ言葉を浴びせかけてくるのだそうです。

ある居酒屋で突然別れ話を持ちかけられて、突然の話に武田鉄矢氏がすすり泣いてしまうと、ひと言

「女々(めめ)しか!」

と言ったとのことです。

そして、席を立って出て行こうとする彼女の腕をグッと握って引き留めようとしたら、更にひと言

「大きい声出すわよ!」

と言われて、さすがに自分が犯罪者扱いされたように感じて拍子抜けし、即座にあきらめたのだそうです。

ただ、ここで自分が偉かったのは、決して彼女を追いかけなかったことだったそうです。

ここで追いかけるかどうかで、人間性や情景が全く変わってしまい、「ストーカー」となるかどうかの分かれ目になるので、そうならなかった自分が本当に偉かったと強調していました。(これは毎回強い口調で話しています)

 

まあ、この話も以前のブログで何回もお話しておりますので、今回は新たに聞いたお話をご紹介したいと思います。

 

1⃣ 「幸せ」とは?

 武田鉄矢氏は娘さんが2人いる4人家族だそうです。

まだ娘さんが小さかった頃、4人で夕ご飯を食べていたのですが、娘さんはとてもお腹が減っていたのか、あっという間に食べ終わってしまったのだそうです。

まだ食べている武田鉄矢氏をなにやらうらめしそうに見ていたので、「どうだ、これ食うか?」とおかずのコロッケかなんかをあげたのだそうです。

すると、にんまりと満面の笑みを浮かべて、とてもうれしそうに食べたのだそうです。

その娘さんの姿を見て、武田鉄矢氏はとても幸せな気持ちになったのだそうです。

「人間て不思議なものですよね・・自分が完全に満たされた状態より、相手が幸せで、自分が少し幸せでない、こういう状況の方がとても幸せを感じるのですよね・・・」

「ホント、人生というか、幸せというのは、実に哲学的だなあ、と感じた瞬間でしたね」

これはなかなか含蓄のある話で、けっこう共感しました。

確かに自分が欲しいものをすべて手に入れ、食べたいものをお腹いっぱいに食べた、大満足の状態より、なにか自分のものをある程度犠牲にして相手に与えて、相手が喜ぶ姿を見る方が、なぜか幸せを感じることが多いような気がします。

この辺は、精神科医で作家の樺沢紫苑先生も言っていましたが、脳内物質が関係しているのでしょう。

自分自身が満足することはドーパミンの作用で長続きはしませんが、相手が喜ぶ姿を見るのはオキシトシンの作用なので、なかなか逓減することはありません。

なかなか考えさせられました。

 

2⃣ 家族との絆とは? 商売とは?

武田鉄矢氏は5人きょうだいの末っ子ですが、お姉さんが3人いたそうです。

その三女であるお姉さんは、神戸でぼったくり?のスナック(武田鉄矢氏がそのように言っていました)を経営していました。

ところが1995年の阪神淡路大震災で、店は潰れてしまったそうです。

意気消沈して命からがら故郷の博多に帰ってきたお姉さんは

「もう神戸はコリゴリや!これからは博多で生きていく!」

と半べそを搔きながら言ったそうです。

ところが、それを聞いた武田鉄矢氏のお母さんは厳しい口調で

「何を言うとんねん!今すぐ神戸に戻れ!」

と厳しく叱ったとのことです。

(母ちゃんこそ、何を言うとんねん、どういうことや?)と思っていると、

お母さんはこう言ったのだそうです。

「小商売やって生きてきたんだったら、店を閉めるとは何事や!」

「小商売やっている商売人だったら、店なんか閉めずに、何が何でも看板掲げて店を開けてろ!」

しかし、震災で建物は傾いており、看板を掲げるどころではありません。

「看板が無いんやったら、提灯でもぶら下げてろ!」

こう言って、娘を神戸に追い返してしまったそうです。

 

まあ、これを聞いて、なんかスゴイお母さんだなあと、ちょっと引いてしまいました。

普通だったら、震災でツラい目に遭った娘を慰め、しばらく故郷の博多で一緒に暮らすことを提案し、援助するのが家族であり、親子ではないかと思うのですが、まあいろいろな人がいるもんですね。

このお母さんも、働かないでギャンブル狂いのどうしようもない亭主を支えながら、小さなタバコ屋を経営して、5人の子供たちを育て上げた商売人であり、苦労人ですから、こんな言葉が出るのでしょうかね。

 

長くなってしまったので、続きは次回のブログで!

 

 

 

 

 

 

休職中の4回目の精神科受診

休職してから3ヶ月が経とうとしていた4月6日、休職中の4回目の精神科受診に行ってきました。

前回からの続きです。

 

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今回は主治医のK先生に傷病手当金の支給申請書を書いてもらうため、きちんと準備をしました。

また、5月の中旬には復職したいと考えており、K先生に現状の僕の状態をきちんと伝えたいため、話したいことをあらかじめスマホのメモ欄にメモしていました。

約束の時間のかなり早めの25分くらい前にクリニックに到着し、話したいことをメモした画面を見たりして、準備していました。

 

そんな感じで20分ほど待ったころ、名前を呼ばれ、診察室に入っていきました。

僕はやっぱりメンタルが不安定で、不安障害があるのでしょうか。

すぐに傷病手当金支給申請書の原本をバッグから取り出して、手に持ち、話したいことをスマホにメモしたので、それを見ながら話すことをK先生に告げました。

 

K先生より、この約1ヶ月間の状況がどうだったか質問されました。

僕は堰を切ったように、この約1ヶ月間の状況を話し始めました。

①体調やメンタルはまだ不安定なところはあるが、少しずつ良くなっていることは感じている。但し、不安になることは増えてきて、リーゼはほぼ2日に1回飲んでいる。

②睡眠は平均7時間程度は取れているが、寝つきは日によって不安定なところはあり、睡眠剤のロゼレムはほぼ2日に1回は飲んでいる。

リーゼもロゼレムも1月から2月より摂取量は増えてきている。

これに対して、K先生は答えました。

「リーゼもロゼレムも摂取量は以前よりは増えてきているということですね」

「ただ、これらの薬は毎日指示したとおりに飲んでください」

それを聞いて、僕は(あーー、そうなんだ)と思いました。

「睡眠剤のロゼレムは依存性は無いので毎日飲んでも問題無いです。リーゼは多少依存性はあるので、絶対とは言いませんが、出来るだけ毎日飲んでください」

 

僕は承諾し、その後いちばん話したいことを話そうと思いました。

それは、この1ヶ月間、高尾山や鎌倉、立川の昭和記念公園など、比較的遠くて人が多いところにも行けるようになったのではあるが、まだ人ごみに関しては結構な抵抗感があり、他人が近寄ってくるだけで不快感を通り越して、怒りが込み上げてくることが多々あることでした。

例えば、①電車の座席に座っている時に隣に座られること、②駅のホームで電車を待っている時に、他のラインは結構空いているのに、わざわざ僕の後ろに並ばれること➡これに関してはK先生も(これはわかる気がしますが・・・)とポツリと答えました。

その他、歩いている時、車を運転している時でも、後ろに付かれると、なんか尾行されているような不快な気持ちになることなど・・・

以上の傾向があることは妻にも指摘されていました。

「このように不寛容になるというか、許容範囲が狭くなってくることは、メンタル疾患患者の特徴なのでしょうか?」

 

僕のこれらの話を聴いて、K先生は顔をしかめ、少し考えてこう言いました。

「・・・かなり過敏になっている傾向がありますね・・・」

「以前からそういう傾向はありましたか?」

僕は答えました。

「3~4年ほど前からそういう傾向が出てきて、昨年あたりからひどくなってきました」

すると、K先生は静かにこう答えました。

「メンタル疾患になると、余裕が無くなってくるので、不寛容な傾向になることは確かであり、それほど珍しいことではありません」

「ただ、お話を聴いていると、やはりかなり過敏になっていると思われます」

「興奮させる物質であるノルアドレナリンの放出を抑える薬を飲むなど、新たな薬を処方して飲んだ方が良いと思われますが、お聞きしたところリラポンさんは毎年今の時期は心身ともに不安定になる時期であり、今のところ新たな治療を始めるのは控えた方が良いでしょう」

「よって、もう少し様子を見てみましょう。調子の悪くなる時期を脱して、その時に必要であれば新たな薬で治療してみましょう」

「すでに処方しているリーゼはそのようなノルアドレナリンの放出を抑える作用は無く、お酒と同じように酔わせることによって細かいことを気にならなくさせる薬です」

 

K先生の話に納得して、僕はさらにこの1ヶ月間の近況を話しました。

「先生のおっしゃる通り、かなり過敏になっていることもあり、不安が強くなっており、それが原因なのか、日々のルーティンとして日記を書いたり、語学の勉強をしたり、運動などはほぼきちんと毎日やっています」

「また、以前はあまり気が進まず、なかなか出来なかった面倒な書類作成などがだんだんと出来るようになってきました。医療費控除の確定申告など結構面倒くさいのですが、これもやり遂げました」

「まだ不安定ではありますが、5月中旬頃には復職したいと考えていて、心と身体を整えていきたいと考えています」

これらの話を聴いて、K先生は言いました。

「次回の診察では、再度復職延長の診断書を書くか、復職に向けての話をする必要があります。復職OKという診断書を書くことも問題ありません」

僕は答えました。

「仮に復職する場合、事前に会社の産業医の面談が必要なので、なるべく早めの日付での診察をお願いしたいと思います」

K先生と話し合い、次回の診察は3週間後の4月27日となりました。

そして、傷病手当金支給申請書もその場で書いてもらい、会計の時に窓口から受け取ることが出来ました。

 

次回はいよいよ復職に向けた具体的な話となります。

 

 

 

休職中の生活 その5 傷病手当金について

「えっ?!マジかよ・・・・・」

3月25日になり、僕は不安な気持ちを抑えながら、自宅のパソコンを立ち上げ、給与明細のサイトを立ち上げ、3月25日支給の給与明細書のデータを確認しました。

僕はその支給額を見て、驚きとともに愕然とするのでした・・・

前回からの続きです。

 

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住民税や厚生年金などが差し引かれた後の給与明細書の支給額は、いつもの差引後支給額の10分の1にも満たない額でした。

傷病手当金の額は、通常の給与の額のだいたい3分の2と言われています。

「こ・これは・・・」

僕の不安は的中し、すぐさまいつもやり取りしている人事部長にメールを送りました。

「給与明細額を確認しましたが、これは8日間の有給休暇の支給額と残り21日間の傷病手当金の額を合算した額なのでしょうか?」

 

それからしばらく数時間の間、メールの返信は無く、僕はどうしたものかと考えあぐねていましたが、約3時間後の夕方頃に返信がありました。

返信の内容によると、やはり振り込まれた金額は8日間の有給休暇の支給額のみであり、それ以降の休職期間についての傷病手当金については別途申請が必要とのことでした。

僕はそれを確認して、ホッとすると同時に、

「なんだよ・・それだったら休職する前にひとこと言って説明してくれよ・・」

と半ばあきれた気持ちになりました。

しかも社内共有チャットに、詳細の内容と申請書原本のデータを送ったので、確認して欲しいということでした。

でも、僕は休職前に、社用パソコンと社用スマホは返却してしまっているので、確認のしようがありません。

そのことについてと、申請書原本と詳細概要を郵送で送ってほしいことをメールで返信しましたが、以降返信はありませんでした。

 

翌朝、ふと社内共有チャットのアプリのIDとパスワードは控えてあるので、このアプリを自宅のパソコンにインストールして確認できるのではないかと気づき、インストールしてIDとパスワードを入力したら、確認することが出来ました。

チャットを開くと、休職してからの約2ヶ月半以上のおびただしい数の連絡がはいっていましたが、それらはすべて無視し、やっと労務課からの傷病手当金に関する詳細の内容と申請書原本のデータを確認することが出来ました。

そのことを再度人事部長にメールで伝えましたが、相変わらず返信はありませんでした。

 

傷病手当金に関する詳細を確認しましたが、なにやら面倒くさそうだったので、しばらく放置していたところ、数日後に会社の労務課からレターパックで、傷病手当金に関する申請書類一式の原本が送られてきました。

僕はそれを元に自分が記入する必要があるところを記入し、わからないところは会社の労務課に質問してやり取りをして、とりあえず記入を済ますことが出来ました。

主治医が記入しなくてはならない書類は、4月6日の診察日にお願いすることになります。

 

僕は以前にも末期ガンで入院して休職したことがあり、その時のことを思い出しました。

その当時は前職の会社に在籍していた時でした。

たしか、あの時も傷病手当金のことについては会社側からは説明が無く、別の情報で傷病手当金が支給されることを知って、こちらから(入院している僕に代わって妻が)電話で会社の総務人事部担当者に確認していたことを思い出しました。

その時も当時の会社の総務人事部担当者から、「傷病手当金のことについてはこちらの管轄ではないのですよ」と言われましたが、末期ガンで差し迫っていた状況もあり、総務人事部担当者から必要な情報を入手し、手続きをお願いした記憶があります。

おそらく健康保険組合に直接連絡して確認してほしいということなのでしょう。

でも、こちらとしては初めてのことであり、滅多に無い緊急事態でもあるので、そんなイレギュラーなことは把握しているはずがありません。

休職前に社員本人や家族にきちんと説明しておくべきです。

 

「結局、会社というか他人というのは完全に信用してはダメだな・・」

僕は、どのような状況であるにせよ、必要なことはある程度自分で調べることが必要だし、何かわからないことや違和感があれば容赦なく確認するべきだな、と再度確信するのでした。

 

次回に続きます。

 

休職中の生活 その4 確定申告や傷病手当金などのお金の心配について

3月9日に主治医との診察で、今後のことについて話し合い、まだ不安定な状況が続いていて、今すぐに復職するのは難しいという結論に達し、休職期間は5月中旬まで延長されることになりました。

その後の生活について、簡単にお話いたします。

前回からの続きです。

 

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主治医に5月中旬までの休職延長の診断書を書いてもらい、翌々日にすぐにメールでやり取りしている人事部長宛にレターパックでの郵送で送りました。

これでまずは一安心。

僕自身もこれからすぐに復職してうまくやっていける自信がまだ無かったので、正直ホッとしました。

 

そして、次にやらなくてはいけなかったことは「確定申告」。

僕はサラリーマンなので、年末調整ですでに会社側で申告手続き済でしたが、医療費控除の申告がありました。

僕も妻も持病でひんぱんに病院に通っているので、毎年かなりの医療費を支払っています。

高い税金を払っているので、少しでも取り戻さなくてはなりません。

さほど大きな額が戻ってくるわけではないのですが、政治家の裏金問題や大増税政策に腹が立っているので、手間がかかってもやらずにはいられませんでした。

以前はわざわざ税務署に行って申告していたのですが、最近ではマイナポータルアプリやe-taxなどを使えば、自宅で申告書類を作成して、電子申告が出来ます。

しかし、そうは言っても、なかなか複雑で骨が折れる作業で、申告用のYouTubeやサイトなどを確認しながらやったのですが、本当に大変でした・・・(-_-;)

コロナ禍以降、毎年やっているのですが、やっぱり年1回だとどうしても忘れてしまいますね・・・

メンタルが弱っている中、こういう細かい作業を行うのは、かなり精神的にも負担となるのですが、仕方ありません。

午後3時ころから始めて、終わったのは午後9時ころでした・・・(-_-;)

ヘトヘトになりましたが、この休職期間中でいちばん面倒くさいことが終わったので、とりあえずやり遂げた充実感で気分は良かったです。

しかし、まあ・・・実は2023年は僕と妻の2人で年間165,111円も医療費を支払っていたのですが、医療費控除額となるのは65,111円、なんやかんやの計算で、最終的に還付される金額はたったの13,189円!!

これだけの手間をかけたのに、正直愕然としてしまいました。

 

3月はそれまでよりは気温が上がって暖かい日が増えてきましたが、暖かくなったり寒くなったり、寒暖の差が恐ろしく大きくて、体調もメンタルもあまり良いとは言えませんでした。

しかも春の長雨が、けっこうメンタルに悪影響を与えて、かなりツラかったです(´;ω;`)ウゥゥ

それでも、日々のルーティンとしてやっている自分を振り返る長い日記や、英語とフランス語の勉強、散歩、室内での運動などは、ほぼきちんとやっていました。

 

しかし、そのような中で、ずっと気がかりだったことが一つありました。

休職期間が延長されたこと自体は良かったのですが、問題は収入でして、2月8日までは有給休暇を消化していたので、2月25日に口座に振り込まれた給与は以前と変わらない額だったのですが、2月9日以降は純粋に休職期間となり、傷病手当金の支給となります。

その額は休職前に人事部長から簡単に説明されましたが、通常の給与の三分の二ほどの額になってしまいます。

まあ、ただそれは仕方が無いことで、人事部長から言われるまでも無く、このことは知っていました。

問題は、傷病手当金の支給に関して、手続きのことを何も説明されていなかったことでした。

最終出社日にまた会議室に呼ばれて、その時に説明されるのかな?と思い、人事部長に「再度、休職前のミーティングはありますか?」と尋ねたのですが、「もうミーティングはありませんから」と言われたのみでした。

そして、結局そのまま休職期間に入ってしまったのでした。

「ということは、労務課の方で手続きはやってくれるんだな・・・」

と勝手に解釈していたのですが、3月25日の給料日が近づくにつれて、不安は大きくなるばかりでした。

そして、3月25日になり、僕は不安な気持ちを抑えながら、自宅のパソコンを立ち上げ、給与明細のサイトを立ち上げ、3月25日支給の給与明細書のデータを確認しました。

「えっ?!マジかよ・・・・・」

僕はその支給額を見て、驚きとともに愕然とするのでした・・・

 

(次回に続く)

 

 

坂本龍一氏一周忌

とうとう1年が経ってしまった・・・

敬愛する音楽家で社会活動家でもあった坂本龍一氏が闘病の末亡くなってから、早くも1年が経ってしまいました。

 

この1年間、僕なりに様々な思いを巡らせてきました。

数多くの追悼番組やイベント、坂本龍一氏を忍んで発売されたCDや映像ソフトなど数多くのメディアがリリースされました。

まるで、まだ坂本龍一氏は生きているのではないかと思わせるほどの、氏に関する大量の情報が毎日のように流れていました。

しかし、どのメディアも情報も「2023年3月28日死去」という文字が目に入り、その度に言い知れぬ寂しさを覚えました。

 

そして、もし坂本龍一氏が生きていたら、これまでの1年間の世の中をどのように思い、感じるだろうとも空想しました。

未だ終わらないロシアとウクライナの戦争、その他勃発する紛争、腐った日本の政治家たちの裏金汚職問題、能登半島地震に対する政府の無策、大増税インボイス問題・・・・・

きっと激しくお怒りになり、坂本龍一氏なりの独自の運動を展開していたに違いありません。

坂本龍一氏の一ファンとして、氏の考え・思いを少しでも継承したい気持ちはありますが、僕はただのちっぽけなしがない一般のサラリーマンでしかなく、出来ることはとても限られています。

しかも、メンタル疾患を患い、休職中の身です。

しかし、僕なりに出来ることを出来る範囲でやっていくしかないと思っています。

 

今日は坂本龍一氏への追悼の意味も込めて、氏の「遺言」とも言える「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」(2023年6月発売・新潮社)の著書を静かに読んで過ごしたいと思います。

 

2009年に発売された坂本龍一氏の半生を綴った「音楽は自由にする」の続編です。
とても興味深く濃い内容です。読破したら、書評でご紹介したいと思います。

 

そして、坂本龍一氏が最も心血を注ぎ、「好き過ぎて他の人に聴かせたくない」と言わしめた「async」(2017年リリース・commmons」を聴きたいと思います。

 

坂本龍一氏が、最も愛着を持った作品だと言っていました。
静寂に包まれ、聴いていると瞑想状態になります。

 

坂本龍一氏のご冥福を改めてお祈りいたします。

 

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