肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

村上春樹「猫を棄てる~父親について語るとき」

今年(2020年)4月下旬に発売された村上春樹の新刊「猫を棄てる~父親について語るとき」を読みました。

コロナ禍中の緊急事態宣言の真っ最中に発売されたのですが、内容は村上春樹のかなり私的な事柄~父親のたどってきた生涯、それを取り巻く環境、父親との思い出について書かれています。

全100ページ前後の小冊子ともいうべき、手頃なサイズの本で、まとまった時間があれば一日で読めてしまいますが、内容は村上春樹の思い入れがかなり詰まったものとなっております。

本人もあとがきで書いていましたが、いつかはこのようなまとまった形で、父親についての本を出したかったとのことです。

いろいろと確執があり、気が重く、なかなか手を付けられなかったらしいですが、やっと心の整理がついたのでしょう。

僕なりに感じたことをいくつかピックアップしていきたいと思います。

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村上春樹「猫を棄てる」表紙

①自分に課せられた生涯の「モチーフ」

村上春樹の父は、大正6年に京都のそこそこの規模のお寺の6人兄弟の一人の息子として、生まれました。

戦前のよくある習わしとして、長男以外はたいていよそに奉公に出されるらしいのですが、村上春樹の父も例外ではなく、奈良のあるお寺に出されたそうです。

しかし、しばらくして、そのお寺から実家のお寺にほどなくして戻されたそうです。

その、一時的にせよ、「親に棄てられる」という体験は父の心の傷として、深く残っていたらしいです。

村上春樹は、「その種の記憶はおそらく目に見えぬ傷跡となって、その深さや形状を変えながらも、死ぬまでつきまとうのではないだろうか?」と書いていましたが、僕もこのことについては同感です。

同様の体験をしたフランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーの例も出していますが、やはりこの人も生涯「棄てられる」という一つのモチーフを作品の中で追求し続けていたそうです。

人は皆、幼少から少年時代にかけて体験した、印象深い強烈な出来事を、無意識のうちに生涯追求し続けてしまうのかもしれません。

 

②親と子・世代間の確執

村上春樹の父は、かなり熱心に学業に専念し、追求していたようで、京都大学文学部の大学院まで行ったそうです。

ただ、第二次世界大戦のため、何度も兵役につく羽目になり、戦後は食べていくために教師の職につかざるを得ず、なかなか自分が納得の行くように、じっくり学業に専念することが出来なかったようです。

そこで、父は息子の村上春樹に自分のやりたかったこと、出来なかったことを託そうとするのですが、これがたいていの親子ではそうだと思いますが、うまくいきません。

村上春樹は、基本的に学校が嫌いで、いわゆる机にかじりついて与えられた課題をこなす「勉強」が嫌いであり、自分の好きな本を読み、好きな音楽を聴き、運動したり、友達と麻雀を打ったり、ガールフレンドとデートをする方がよっぽど有意義だという価値観を持っていたので、戦争世代の父とは合うはずがありません。

その後、大学在学中に結婚して、ジャズバーを経営して、ますます息子のやることが理解できず、溝が深まり、20年以上顔を合わせることがなかったのでしょう。

村上春樹も言ってますが、良い悪いではなく、それぞれの世代の価値観・枠組みの中で成長していくしかないのだと思います。

 

③偶然がたまたま生んだひとつの事実

村上春樹の父は、2度にわたり兵役についていますが、どちらも激戦区に送られるスレスレのところで、兵役解除になったため、九死に一生を得て、終戦を迎えたようです。村上春樹の母も教師でしたが、父と結婚する前にすでに結婚相手がいたそうです。ただ、その相手が戦死してしまったため、時が流れて、村上春樹の父と結婚することになったようです。

もし、父が激戦区に送られて戦死していたら、逆に母の元結婚相手が戦死せずに母と結婚していたら、自分という人間は存在せず、自分が書いた本だって存在しないことになる。

そう考えると、自分が小説家として生きている営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えて、自分が透けているように見える、と考えたそうです。

そして、この本の最後の方で、いちばん語りたかったことをこう結んでいます。

「自分という存在と営み」=「ごく当たり前の事実」

「しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしか無かったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」

父と母のそれぞれの偶然の運命が、偶然に交錯し、自分という存在が生まれ、そして自分も「偶然がたまたま生んだひとつの事実」を積み上げて、今日まで生きている・・・

村上春樹だけではなく、僕も含めた全ての生きとし生ける存在がそうなのでしょう。

とても深く考えさせられる言葉でした。

 

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村上春樹「猫を棄てる」裏表紙

 

【まとめ】

村上春樹は、最後にこうもまとめています。

「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。」

20年以上前に五木寛之氏が出版した「大河の一滴」にも似たフレーズが、村上春樹の著作でもこのように出てくるとは思いませんでした。

しかし、心に響きました。

そうなのでしょう。

人間だけではなく、全ての生物は、「大地に向けて降る雨粒」であり、「大河の一滴」なのだと。

一滴の雨水なりの思いがあり、歴史があり、それを受け継いでいく責務があるという。

コンパクトな本ではありましたが、どこまでも深い、考えさせられる本でした。