前回の続きです。
前回は、「絹の道資料館」をレポートしました。
大塚山公園(旧道了堂跡)は、約19年前に絹の道を歩いて、妻と一緒に向かったことがあったのですが、「首無し地蔵」の話がとても恐ろしかったことと、なんとも言えない不穏な雰囲気に恐れをなして、途中で引き返してしまいました。
今回「絹の道資料館」を訪問して、そのあまりの歴史的な価値に感動し、幕末から明治にかけての、この地域の生糸産業の隆盛の象徴だった、「絹の道」を歩いてみたいと思いました。
また、旧道了堂跡は、この地域の由緒あるお寺である永泉寺の支所のような所だったようで、ここを長年守っていた「浅井とし」という81歳の女性が1963年に強盗に惨殺されたという、いわくつきの場所となっておりますが、元々はこの「絹の道」の拠点の一つであり、第二次世界大戦時には出征兵士を見送って賑わった場所とのことなので、ここも行ってみようと思いました。
絹の道資料館から前の道を歩いて1分くらいの場所に「絹の道」の入口があり、ここから約1.5kmを歩いていくと、大塚山公園の「旧道了堂跡」にたどり着きます。
初めは舗装された道路でしたが、すぐに砂利道になります。
民家はなくなり、完全な山道となります。
曲がりくねった砂利道が延々と続き、猛暑も手伝って、かなりツラかったです。
最後まで行ったことがないので、いつゴールに到着するのか分からず、ひたすら耐えて歩きました。
どのくらい歩いたのか、20分くらいは歩き続けたと思いますが、やっと大塚山公園の入口と思しき、昇っていく階段が見えてきました。
階段を昇っていくと、様々な石造物がところどころに配置されていました。
どれもこれも、とても年季の入ったもので、歴史を感じさせられます。
そして、問題の「首無し地蔵」が見つかりました。
きちんと首がありましたが、胴体と明らかに色や質感が異なっており、
後から補修して付けられたことが容易にわかります。
先を進んでいくと、縄で囲われた「旧道了堂跡」がありました。
今では苔むして、土台が残っているのみです。
ここに、浅井としさんが28歳から81歳で殺害されるまで住んで、このお堂を守っていたそうです。
神秘的な雰囲気のあった女性で、祈祷を行っていたそうで、最初はかなり盛況だったそうです。
そのうち、子供が3人生まれて、村人の中で誰が父親かという噂が広まり、そのうち疎まれて、周辺の村人とは険悪な関係となったそうです。
そんな状況の中で、53年もの長い月日を過ごし、どのような思いだったのでしょうか。
ちなみに、子供は3人のうち2人はすぐに亡くなって、残った女の子一人と一緒に暮らしていたそうです。
「旧道了堂」の跡地を抜けて、右の方向に歩いていくと、まとまった大きさの墓地が見つかりました。
誰のお墓だろうと、行って見てみたら、なんと浅井家のお墓でした。
「安らかにお眠りください・・・」静かにお祈りしました。
ふと気がつくと、お墓の上を黒いカラスアゲハがふわふわと所在なく飛んでいました。
もしかしたら、浅井としさんでしょうか。
ふと、そんな思いが頭の中をよぎりました。
ここまで行ってみた感想ですが、世間で騒がれているほどの「おどろおどろしさ」はありませんでした。
ただ、緑多い自然の中に、様々な歴史的な建造物があり、のどかな雰囲気が漂っているのみでした。
しかし、夜暗くなってからの様相は、容易に一変すると想像できました。
かなりの大金をもらっても、深夜にここには来たくない、と率直に思いました。
ここをもう少し進んでいくと、20分ほどで「白山神社」があるそうです。
白山神社は、東京都指定有形文化財の平安時代末期の経筒が出土したことで知られています。これにより、当時の八王子に「船木田荘」という荘園があったことがわかりました。
次回はそこへ行ってみたいと思います。
近所なので、また近いうちにレポートします!