肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

休職中の生活 その1

最後の出勤で引継ぎが終わり、翌日から休職生活に入りました。

前回までの続きです。

 

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引継ぎをした翌日の1月11日から正式に休職生活に入りましたが、二日続けて出勤して結構一所懸命引継ぎ業務をしたせいか、かなり消耗して疲れていたようで、その晩はかなり深く眠り、昼の12時半頃まで10時間以上眠りました。

まあ、年末から年末年始休暇や三連休などがあり、「休暇慣れ」はしていましたが、「休職」という形でしばらく休暇を取るのはかなり久しぶりでした。

 

実は僕は40歳の頃に末期ガンを患って、7ヶ月くらい入院生活を送ったことがあり、その後療養のため、1年近く休職したことがあります。

その後、48歳の時にも目の治療の手術のため、会社を退職せざるを得ず(ブラックな会社だったので)、10ヶ月近く無職の時期がありました。

今回このような長期間の休職期間を過ごすのは、かなり久しぶりなので、意外とどう過ごしたらよいか、戸惑ってはいました。

 

ただ、産業医や主治医からはこう言われました。

「しばらく仕事から心身を解放して、『グダグダ・ダラダラ』してください」

「時間割を考えず、好きな事をやり、『~しなければならない』『~すべきである』という考えから自分を解放させてあげてください」

なので、特にこの期間何をするか、何をしなければならないか、など特に考えず、過ごそうと思いました。

 

とはいえ、クソ真面目で完璧主義な性格の僕なので、最低限これだけはやろうということはあり、続けていました。

まず起きたら、亡くなった義母の写真に挨拶し、2箇所に祀ってあるそれぞれの神棚に祈りの言葉を捧げること。

そして、自分自身が目標としていること・やりたいこと・将来なりたい姿などをまとめたシートに目を通すこと。(精神科医で作家の樺沢紫苑氏推奨)

これも精神科医で作家の樺沢紫苑氏が常々推奨している「三行ポジティブ日記」。

その日あった良かったことを簡単に三行だけまとめて書く日記です。

本当は寝る前に書くのが良いのですが、僕の場合は朝起きてすぐ書いています。

それが終わると、スマホに入っている「Duolingo(デュオリンゴ)」というアプリで英語とフランス語を勉強すること。

それが終わると、シャワーを浴びて顔を洗うなどして身支度を整えて、散歩に出ます。

帰ってきたら、こうしてはてなブログにブログを書いてアップする(これはなかなか毎日出来ていませんが・・)

まあ、こうやってある程度やることを決めておくと、ソファに寝転んでゴロゴロするよりは、意外と精神は安定するようです。

 

その後は、読書したり、音楽を聴いたり、好きな事を気ままにやって、昼食を妻と食べた後、ボードゲームをして楽しんでいます。

夕方は買い物に出かけることもありますが、たいていWii Fit Plus(2008年頃から2010年代前半まで流行っていた任天堂のフィットネスシステムです。まだ使ってます)でヨガや筋トレ・室内ランニングなどをして、レッグマジックをやったりして運動しています。

そして、妻が作った夕食を食べながら、好きな映画やYouTubeなどを観て、お風呂に入って寝るという生活をしています。

 

まあ、クソ真面目で完璧主義な性格なので、なかなかダラダラとすることが出来ないのですが、ある程度のことはルーティンのように決めてやると、それに没頭することも出来て、達成感もあり、込み上げてくる不安感も抑えることが出来るので、自分としてはこんな感じの過ごし方でもいいのではないかなあ、と感じています。

 

休職生活に入ったのが1月11日ですが、その後間もない13日に精神科の診察がありましたので、次回はそのことについてお話したいと思います。

 

 

 

 

 

休職決定後の仕事始めと引継ぎ

昨年末の人事部長と直属上司との面談で休職が決定してからの状況をお話したいと思います。

前回は年が明けての状況をお話しました。

 

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前回からの続きです。

 

今年の仕事始めは1月5日(金)でした。

あっという間に年末年始休暇が終わり、僕は自宅でリモートワークで仕事をしました。

とりあえず部内の共有チャットに、年始の挨拶をしましたが、特に反応はありませんでした。

まあ、直属上司のA部長とI課長はまだ年末年始休暇中でしたが。

休職するので、主な仕事は引継ぎに関することで、とりあえず会社のウェブ上のプラットフォームの業務報告のフォーマットに引継ぎ事項をまとめました。

全店舗の契約事項など重要事項をまとめてある共有リストは、最新の情報に更新しました。

まだ1月5日なので休暇中の取引先も多いのですが、主な取引先にはメールで年始の挨拶と共に僕の休職の件を伝えました。

この年末年始とこの日1月5日は、幸い特にトラブルは起こらず、静かな一日となりました。

O主任はリモートで出勤していたので、何度かやり取りをするくらいで、その日の業務は終了しました。

 

その後3連休となり、明けて1月9日(火)に初出勤しました。

この日が休職前の最後の出勤日となります。

ちょうど月一の全社朝礼があり、僕はいつもリモートで参加していたので、リアルで朝礼に参加するのは奇しくもコロナ明け後初めてとなりました。

社長の朝礼の訓示を聞きながら、「今年最初の社長の年始の訓示を聞いて、すぐに休職するなんて因果なもんだな」と考えていました。

適応障害で休職する」ということが決定して、初めての出勤であり、顔合わせだったので、僕は結構緊張しましたが、出勤してみると案外普段と変わらない感じでした。

 

週一恒例の今年初めての部内会議に参加し、A部長の方から僕がしばらく休職することを発表しました。

でもI課長もO主任も特に動揺することは無く、焦点は僕の業務の引継ぎに関する事でした。

部内会議が終わり、別の場所で引継ぎに関するミーティングを行いました。

あらかじめ業務報告に引継ぎ事項をまとめていましたので、これを元に誰が何を引き継ぐかを話し合って決定し、それほど面倒なことは無く、1時間半程度で終了しました。

しかし、実際の業務の内容や注意点など細かいことをI課長とO主任に引き継いで教えなければならないので、これについては結構時間がかかり、本当は1月9日中に終わらせて、翌日10日から休職する予定だったのですが、10日も出勤する羽目になりました。

 

10日は午後半休にして午後2時までの出勤としたのですが、結局時間内には終わらず、午後4時までかかってしまい、僕は午後4時過ぎに退勤しました。

引継ぎを二日間行いましたが、特に何か気負ったり特別なコミュニケーションなどをすることはなく、淡々と事務的に行いました。

I課長もO主任も特に「R課長(僕)、大変ですね」「元気になって帰ってきてくださいね」など情感のこもった言葉を投げかけてくることは無く、実に淡々としていたのが印象的でした。

ただ、I課長は外出時に、「それじゃあ、Rさん(僕)、お大事に」とひとこと言って会社を出ていきました。

僕が退勤する時、O主任は「ゆっくり休んでください」とひとこと言うのみでした。

退勤時に、役員や部長クラスのデスクが集うスペースまで行って、翌日から休職することについての挨拶を軽くしましたが、軽く会釈されるのみでした。

でも、こんな感じで良かったと思います。

あまり情感のこもった大げさなコミュニケーションは僕にとっても何となく気恥ずかしい感じで負担に感じる部分もあるし、彼らもメンタルに問題を抱えた社員に何と言っていいのか難しいと思います。

ただ、A部長が外出時に、「ありがとうございました!」と僕の顔を見ながら言って、去って行ったのは正直嬉しかったです。

A部長は結構クールというか、淡々としていて、今まで数多くの部署内の社員が辞めて行っても、何も声をかけることもなく、コミュニケーションも取ることはありませんでした。相手が辞めるとわかると全く興味を示さなくなるタイプのようでした。

僕は会社を辞めるわけではありませんが、しばらく会社からいなくなる人間なのに、僕の顔を見ながら挨拶してくれたのは、正直救われた気がしました。

 

会社を出て、僕はなんとなく解放感を覚えました。

駅前のタワーレコードに行って、好きなアーティストのCDやレコードなどを見て回り、自分へのこれまで頑張ってきたご褒美として、発売したばかりのビリー・ジョエルのライブ盤のCDとビル・エヴァンスのライブ盤のCDを購入しました。

そして、駅の改札口近くの成城石井で普段は発泡酒なのに、アサヒスーパードライを買って、店の前で一人祝杯?を上げ、想いに耽りました。

 

そして、帰宅するために電車に乗り、僕の休職生活は幕を開けたのでした。

 

 

 

辻仁成 絵画展 「Les invisibles 見えないものたち」

先日ご紹介した坂本龍一トリビュート展を観た後、小説家で音楽家・料理もプロ並みに腕がある辻仁成氏の絵画展「Les invisibles 見えないものたち」を観るために、新宿伊勢丹まで行ってきました。

 

一切撮影禁止(当たり前か)なので、ここではご紹介できませんが、僕個人としてはとても素晴らしいと思い、感銘を受けました。

僕は特別絵画に詳しいわけではなく、完全など素人なのですが、作風に関してはピカソのような「抽象画」(間違えていたらすみません・・)という感じでしょうか。

僕個人としては好みなのですが、おそらくこういった作風は人それぞれの好みが分かれると思います。

ただ、その難解な印象の抽象的な絵画の中に、辻仁成氏なりの現代の混沌とした不安定な世界に対する想いがひしひしと感じられ、写実的ではないからこそ、感じるものがありました。

 

辻仁成氏は現在フランスに在住する、元々小説家で音楽家で、最近ではテレビで料理の腕も披露するなど、とてもマルチな才能を発揮していますが、絵画は全くの素人だったそうです。

ただ、あくまでも自分のプライベートな趣味として絵画を描き続けていて、以前から親しかった有名な画家である千住博氏に見せたところ、「ぜひ個展を開いた方がいい」と強く勧められ、今回新宿伊勢丹での初めての個展を開くこととなったのだそうです。

本人は素人である自分絵画の個展を開くことについて、いろいろと心配なことがあったようで、愛着のあった自分の作品が売れて他人の手に渡ってしまうことについての寂しさ、反対に個展を開いたもののほとんど客が入らず、全く売れなかったらどうしよう、などといろいろと考えあぐねていたそうです。

でも、僕が観に行った2月29日の夕方の時点で、ほぼ8割くらいの絵画は売約済となっていたと思います。

本日の時点で全て完売したと聞きました。

僕も妻もかなり気に入った絵画がいくつかあったのですが、比較的小型の絵画でも44万円(税込)でしたので、なかなか手が出せず、泣く泣くあきらめざるを得ず、代わりに画集(11,000円(税込))を購入して我慢することにしました。

 

残念ながら、この画集も昨日の時点で売り切れとなってしまったとのことでした。

この画集は辻仁成氏が自費出版でとても苦労して作成したとのことで、増刷は出来ないとのことでした。

 

好みは分かれるとは思いますが、一度この機会にあの辻仁成氏の絵画(しかも原画)はぜひ見ておいて損は無いかと思います。

3月5日(火)まで新宿伊勢丹本館6階アートギャラリーで開催されていますので、ご興味のある方はぜひ観に行ってみてください。

www.mistore.jp

坂本龍一トリビュート展

昨年2023年12月16日から東京・初台の東京オペラシティタワー4階のNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で開催されている「坂本龍一トリビュート展」を観に行ってきました。

 

 

坂本龍一氏は生前音楽とテクノロジーとのかかわりにとても深い関心を持っていました。

現代美術いわゆるメディアアートの分野でも、カールステン・ニコライ氏,高谷史郎氏,真鍋大度氏,毛利悠子氏といったアーティストとのインスタレーション制作などを行い、多くの作品の制作を行なってきました。

この分野でも多くの功績を遺してきた坂本龍一氏に敬意を表する意味で、このようなイベントが開催されたとのことでした。

なので、主にメディアアートに関する坂本龍一氏へのトリビュートであり、その他の坂本龍一氏の作品やYMO時代の作品などについてのトリビュートはほぼ無いことに注意した方がよろしいかと思います。

 

僕はほとんどメディアアートについての知識は無いので、観たままをそのまま述べたいと思いますが、なにぶん稚拙な話になってしまうことはご容赦ください。

 

僕の印象を一言で言ってしまうと、「ザ・アート」という感じであり、現代美術~メディアアートにある程度精通していないと、ちょっと難解かもしれません。

 

 

まず狭いエントランスの中に入ると、真っ暗であり、黒いカーテンのような仕切りをめくると、真っ暗な中に大きなスクリーンがあり、電磁波のようなもので描かれたような「図形」が映し出されていました。

その「図形」のようなものは、絶えず姿形を変えて、映し出されていました。

「○○〇MHz」と数値が数秒おきに表示され、どうやらその数字に合わせて変化しているように見受けられました。

何とも神秘的な光景で、初めのうちはとまどっていましたが、観ているうちに気分が落ち着いてきて、見入ってしまいました。

 

ずっと見ているうちに、なぜか気分が落ち着いてきました。
他の方々も結構集中して見入っていました。

 

反対側へ、また黒いカーテンのような仕切りをくぐって入ってみると、そこにも真っ暗な中に大きなスクリーンがあり、生前の坂本龍一氏がピアノを弾いている姿が映し出されていました。曲は「Perspective」や「Aqua」などを演奏していました。

映像に微妙にノイズを織り交ぜているため、電波が不安定で映像が揺れている演出が施されており、それがまるで異次元の世界に行ってしまった坂本龍一氏の演奏している姿に見えてしまうような錯覚を起こしました。

 

まるで異次元空間で演奏する坂本龍一氏のようでした。

 

黒いカーテンのような仕切りをくぐって、奥の方に出ていくと、そこは明るく広々としたエリアになっていて、中央にヤマハのグランドピアノが置かれており、その上に白い短冊のようなものが吊るされていました。

 

 

坂本龍一氏が東日本大震災後に対面したあの「津波ピアノ」かと思ったのですが、どうやら違うらしく、メディアーティスト毛利悠子氏の作品のようでした。

四方の壁に、様々な作品が展示され、入って向かって奥の壁には、メディアアート作品をレコード化して16枚をセットにしたと思われる(違っていたらすみません)「Dumb Type+Ryuichi Sakamoto(Playback 2022)」の作品の白い色をした16枚のレコードが個々に展示され、それぞれに関わったアーティストのコメントの文章も記載されていました。

ソニーの超高級アナログプレーヤーに白いレコードが乗っている展示もありました。

これらだけは、なぜか撮影禁止とのことでした。

 

向かって左側には、モニターが2台、それぞれ映像を映し出していました。

ひとつは「alva noto+ryuichi sakamoto(insen live (short))」の2006年のライブ映像、もうひとつは「alva noto+ryuichi sakamoto(try-out : behind the scene of utp_ )」の2001年頃と思われるドキュメンタリー映像が映し出されていました。

その横にはヘッドフォンが十数台ほどでしょうか、置かれており、十数人の方がヘッドフォンをしながら、それらの映像に見入っていました。

あまり観たことが無いレアな映像でした。

 

向かって右側には、写真やドローイング(イラストレーションのようなもの)が展示されていました。

高谷史郎氏の撮影した写真と思われる「Piano 20110311」これは「津波ピアノ」と思われますが、展示されていました。

その横に、坂本龍一氏のこの津波ピアノに関連したコメントが壁に書かれていました。

「もとはモノだったものが、人によって変形され、時間とともに、あるいは巨大な自然の力によって、またモノに還っていく・・・・・」

東日本大震災後の現地で見た惨状、「津波ピアノ」を見た後、坂本龍一氏は生前ずっとこのような考えが頭を離れなかったそうです。

 

 

また、坂本龍一氏生前最後に発表されたオリジナルアルバム「12」のジャケットのためのドローイングを制作したLEE Ufan氏の、ドローイングが数点展示されていました。

ひとつは、「12」のジャケットの元となったドローイングで、実際のジャケットはこれを13度の角度に傾けて完成させたのだそうです。

 

 

もうひとつは、坂本龍一氏の病気平癒を願って個人的に贈られたドローイングだそうで、裏面にはLEE氏からのメッセージが書かれているそうです。

 

ずっと眺めていると、本当に調子が良くなってくるような気がしてきました。

LEE Ufan氏から坂本龍一氏への病気平癒を願う個人的なメッセージ

 

そして、最後に手前側の一面一帯は、坂本龍一氏とこのメディアアートをずっと主催してきたICCとの関連年表や、様々な著名人たちの追悼コメントや様々な興味深いテキストなどが掲示されていました。

 

以上、簡単ではありますが、掲示してあるものを大まかに、ご紹介しました。

他にもご紹介したい展示物はたくさんありました。

とてもシンプルな内容ですが、メディアアートを通して坂本龍一氏が訴えたかったことがとてもよく伝わったと思います。

 

ギャラリーは5階ですが、4階のエントランス付近にはグッズショップもあり、あまり市販の書店やレコード店などでは手に入りずらい書籍やBlu-rayソフト・CD・レコードなどが置いてあります。

 

2009年に思想界の巨人である吉本隆明氏と対談した内容を収録した「音楽機械論」(ちくま学芸文庫)、これはなかなか入手しずらいので、思わず買ってしまいました。

 

3月10日(日)まで開催しており、今日2日(土)、3日(日)、来週週末の8・9・10日は、20時まで延長して開催していますので、坂本龍一氏のメディアアートに少しでもご興味のある方は一度行ってみることをお勧めします。

 

↓ 公式サイトです。

www.ntticc.or.jp

 

 

人事部長と直属上司との面談後の年始の状況

このところ、最近読んだ本の書評や、ライブの鑑賞レポートなどが立て込んで、僕の休職後のことについてお話していませんでしたが、軽くお話したいと思います。

前回は年末の状況についてお話しましたが、今回は年始の状況についてお話したいと思います。

 

年が明け、元旦は午前9時ころに目が覚めたと思います。

私は占いやスピリチュアルなどはあまり信じていない方でしたが、歳をとってきたせいか、だんだんそういったものにも興味を示すようになり、ゲン担ぎにも興味が湧いてきました。

僕が参考にしている四柱推命と西洋占星術を融合させたサイトによると、2023年の大みそかで幸運をつかさどる木星が逆行を終え、2024年に入ったと同時に解放感に満ち溢れた雰囲気になるとのことでした。

また、2024年の元旦は、天赦日(てんしゃにち)・一粒万倍日・甲子・建という超縁起の良い暦と重複した、ありえないほどの大幸運日とのことでした。

午前中に神様をお迎えする準備などを行い、午後は近所の氏神様である神社に妻と初詣に行き、きちんと参拝して、お札やお守りを買って、甘酒をいただき、清々しい気持ちで帰ってきました。

帰り際、近所のバーミヤンで美味しいずわい蟹のチャーハンを食べていたら、急に建物が大きく揺れ出して、ビックリしました。

揺れはしばらくすると収まりましたが、スマホで情報を調べ、能登地方で大地震が発生したとのことでした。

翌日には、羽田空港でも大きな事故があり、新年早々二日続けてこのような大惨事が起こると、さすがに僕のメンタルにも悪影響を及ぼしました。

幸い年が明けてからは熱が下がり、鼻詰まりもだんだん緩和されて、後は鼻水と咳だけとなりましたが、気分的にはなんとも落ち込んだ感じになり、メンタル的は重苦しい感じの日々が続きました。

 

そのうちに難病を患っている妻にも僕の風邪をうつしてしまったようで、妻も発熱を起こし、僕と同じ症状を患ってしまいました。

正直、プライベート的にも、社会状況的にも重苦しい雰囲気の漂った2024年の年明けとなったのでした。

人事部長と直属上司との面談後の年末の状況

このところ、最近読んだ本の書評や、ライブの鑑賞レポートなどが立て込んで、僕の休職後のことについてお話していませんでしたが、軽くお話したいと思います。

 

昨年12月26日に会社の人事部長と直属上司との面談が終わった後、27日・28日はリモートワークで自宅で仕事をしていました。

次回1月9日に初出勤する時に、同じ部署の方たちに引継ぎをして、主な取引先にもしばらく休職することを報告し、その翌日から正式に休職することが決まり(2月8日までは有給休暇の消化となりますが)、内心かなりホッとしました。

 

直属上司のA部長からは、チャットで連絡がありました。

「休職するまでに、漏れが無いように、完璧な状態にしておいてください」

何か労いの言葉があるわけでもなく、ただこのような文章がポンとチャットで送られてきただけでした。

僕はちょっとガッカリしましたが、まあ、彼は8歳も年下でまだ40代です。

「ほとんど病気らしい病気もしたことがないので、病気になった人間の気持ちなどわからなくて当然だろう」

「それに僕がしばらく休職することによって、かなりの重荷が彼にも掛かってくるので、そのように言ってくるのも仕方ないだろう」

こう思うようにしました。

 

休職が決まってホッとしすぎたのか、27日の午後あたりから急に喉が痛くなり始めました。

「風邪かなあ?」と思っていたのもつかの間、翌日の朝には38度を超える高熱となり、リモートワークだったので、数時間ベッドに入って寝て、少し調子が良くなってきたら、また仕事をする、ということを繰り返して、仕事納めである28日をやり過ごしました。

 

そして、退勤時間の午後7時ころに、チャットにその日の業務報告をして、「今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。来年は適応障害でしばらく休職することになり、大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。」というような挨拶のような文章を送りました。

この共有チャットには、同じ部署の直属上司のA部長、I課長、O主任の他に、管掌取締役のD取締役も入っているのですが、特に誰からも労いの言葉はありませんでした。

「まあ、職場の人間関係なんて、こんなものか・・・」

僕は高熱でフラフラになった頭でそう思うことにして、会社のスマホもパソコンも閉じて、2023年の仕事納めとしました。

まあ、会社の人間関係とはこんなものだし、そもそも「メンタル疾患」というもの自体があまり認知されていないのは仕方のないことでしょう。

基本的に僕の会社は20代から30代の若い人が多く、健康な人が多く、病気のことについてよく理解している人は少ない傾向にあります。

 

僕は翌日29日には37度台まで熱が下がりましたが、30日には再び高熱がぶり返して38度台となり、かなり鼻が詰まって呼吸も困難な状態が続き、大みそかまで絶不調な状態が続きました。

こうして、僕にとって激動であり、大変だった2023年が終わりを告げたのでした。

ゆるく生きれば楽になる~60歳からのテキトー生活 和田秀樹 その5

クソ真面目で完璧主義な僕にとって、ピッタリの本に出会いました。

前回の続きです。

 

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4⃣ 一つのことに執着すると大事に至る

「ゆるく生きられない人」は、何か些細な一つのことが気になった時、そのことばかりが気になってしまい、心に余裕が無くなって、その結果本当に重要なことを忘れてしまって、慌てふためいて失敗する、ということがあります。

 

何を隠そう、僕もその一人です。

僕は「配置フェチ」というか、物が自分の納得するように整然と並んでいたり、収納されていないと気が済まない、という何とも面倒くさい性癖を持っています。

旅行や出張などに行く時も、着替えの服や洗顔グッズ、スマホやパソコンなどのモバイルグッズなど、綺麗に仕分けして収納するのですが、あまりにもそういうことばかりにこだわってしまい、肝心のパスポートや鉄道の乗車チケットなどを忘れてしまい、慌てふためいて、途中で引き返して取りに行き、乗り遅れる寸前に陥ったことを何度か経験しています。

 

本書では、電気の消し忘ればかり気にするくせに、やかんを火にかけてそのまま忘れて空焚きになって火事寸前になった例が載っていましたが、やはり物事は「程度」というか「バランス」を考えることが重要だと思います。

パスポートや鉄道の乗車チケットを忘れてしまったら、旅行や出張に行くことは不可能ですが、スーツケースの中が多少乱雑になっていたとしても、大して大事には至りません。

空焚きになって火事になってしまったら全財産を失う恐れがありますが、多少電気が点けっぱなしになっていても大した大事には至りません。

こういったことは他人事ではないと、この本を読んで改めて認識しました。

 

「何がいちばん重要なのか」きちんと考えて、要領よく進めることが何事も重要ですね。

 

また、別の例として、試験問題の解き方や仕事の進め方についても解説しています。

日本人は基本的に真面目な国民なので、何事も100点満点を目指し、全力を尽くして頑張ろうとしてしまいます。

あれもこれもと手を伸ばし見て回った結果、どこがいちばん重要な部分なのかわからなくなってしまい、結局肝心な部分を見落として、「枝葉の部分」ばかりを一所懸命やってしまい、結果的に成果が上がらなかったということがよくあります。

 

仕事でも上司やクライアントの要求していることだけに絞って注力すればよいものを、何でもかんでも手を広げて頑張ってしまうので、結局「こういうことをお願いしたわけではないのだけれど…」などと言われて、評価が下がってしまうのです。

 

精神科医で作家の樺沢紫苑氏は、何かの課題に取り組むときは、最初は「30点」を目指せばよいと言っています。

まずは、30点くらいの超ゆるい感じで骨組みを作る、そこで上司やクライアントに方向性を再度確認する、方向性が間違っていないとわかればそのまま進めていき、70点くらいのところで再度上司やクライアントに確認する、それで問題無ければそのまま肉付けしていき、最終的には100点満点を目指さなくても良く、85点くらいでも上司やクライアントは満足するのだということです。

 

次回のブログに続きます。