前回の続きです。
1978年に入ると、メンバーそれぞれの人生に転機が訪れ、「時代の節目」に差し掛かることになります。
坂本龍一氏はこの年の後半には、「YMO」となり、細野晴臣氏・高橋幸宏氏と組んで、世界中をツアーで回ることになります。
村上ポンタ秀一氏も、ジャンルを超えて、活躍の場が増えることになります。
そのような中で、1978年12月26日の渋谷公会堂でのライヴがこのメンバーでも最後のライヴとなりました。
山下達郎氏も、このタイミングで、新たなパートナーとなる、ドラムの青山純氏、ベースの伊藤広規氏と出会い、自分だけのリズム・セクション(いわゆるバンド・メンバー)を構築できることになります。
ただ、ポンタ氏たちと離れた理由は、こう言っていました。
まず、ギャラが高い。前回でもお話ししたとおり、本当に高いと思います。
そして第2に、なんだかんだ言っても結局同じバンドのメンバーというわけではなく、関係性は単なる「スタジオ・ミュージシャン」であり、達郎氏でなくても指名すれば誰でも使えるわけです。
他のアーティストとのセッションで、同じメンバーで収録されたら、結局マネをされて、他のアーティストとの差別化が出来なくなるということです。
この点は、文春オンラインだけでなく、2021年4月18日の「山下達郎の楽天カードサンデー・ソングブック」(TOKYOFM)の中でも、詳しくきちんと強調して述べていました。
よっぽど、言いたかったのでしょう。
また、いわゆる「ミュージシャン」は、とても気難しいということです。
ご機嫌を取ることはもちろんですが、ご機嫌を取っているだけでもダメ。
彼ら一流プレーヤーを、どうやってその気にさせて、本気を出させるか。
「きりきり舞い」させなくてはならないのだそうです。
曲作りに関しても、「技術的には難しいけど、作品的には簡単に聴こえる音楽」を作らなくてはならない。
その「塩梅」が本当に難しいのだそうです。
(次回に続く)