肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

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山下達郎ロングインタビュー「村上”ポンタ”秀一」その3

前回の続きです。

pilgrim1969.hatenablog.jp

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1978年に入ると、メンバーそれぞれの人生に転機が訪れ、「時代の節目」に差し掛かることになります。

坂本龍一氏はこの年の後半には、「YMO」となり、細野晴臣氏・高橋幸宏氏と組んで、世界中をツアーで回ることになります。

村上ポンタ秀一氏も、ジャンルを超えて、活躍の場が増えることになります。

そのような中で、1978年12月26日の渋谷公会堂でのライヴがこのメンバーでも最後のライヴとなりました。

山下達郎氏も、このタイミングで、新たなパートナーとなる、ドラムの青山純氏、ベースの伊藤広規氏と出会い、自分だけのリズム・セクション(いわゆるバンド・メンバー)を構築できることになります。

 

ただ、ポンタ氏たちと離れた理由は、こう言っていました。

まず、ギャラが高い。前回でもお話ししたとおり、本当に高いと思います。

そして第2に、なんだかんだ言っても結局同じバンドのメンバーというわけではなく、関係性は単なる「スタジオ・ミュージシャン」であり、達郎氏でなくても指名すれば誰でも使えるわけです。

他のアーティストとのセッションで、同じメンバーで収録されたら、結局マネをされて、他のアーティストとの差別化が出来なくなるということです。

この点は、文春オンラインだけでなく、2021年4月18日の「山下達郎楽天カードサンデー・ソングブック」(TOKYOFM)の中でも、詳しくきちんと強調して述べていました。

よっぽど、言いたかったのでしょう。

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村上ポンタ秀一氏、坂本龍一氏など、一流スタジオ・ミュージシャンたちと作り上げた、1977年リリースのアルバム「SPACY」

また、いわゆる「ミュージシャン」は、とても気難しいということです。

ご機嫌を取ることはもちろんですが、ご機嫌を取っているだけでもダメ。

彼ら一流プレーヤーを、どうやってその気にさせて、本気を出させるか。

「きりきり舞い」させなくてはならないのだそうです。

曲作りに関しても、「技術的には難しいけど、作品的には簡単に聴こえる音楽」を作らなくてはならない。

その「塩梅」が本当に難しいのだそうです。

(次回に続く)