肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その1

稀代の音楽家坂本龍一氏が2023年3月28日に亡くなって、早いもので1年以上が経ちます。

これまでに坂本龍一氏に関する書籍や雑誌類、音楽や映像ソフトなど様々なアイテムが出されてきましたが、本書は昨年6月に出版された書籍です。

2009年に、自身が生まれてから57歳までの活動の軌跡を記した自伝「音楽は自由にする」の続編ともいうべきもので、2009年以降、亡くなる直前までの活動の軌跡を記した自伝であり、坂本龍一氏が口述した内容を、親友である鈴木正文氏が記載してまとめたもので、まさに坂本龍一氏の「遺書」とも呼べる内容です。

全8章から成り立っており、最後には「著者に代わってのあとがき」というタイトルで、鈴木正文氏が晩年の坂本龍一氏に寄り添った、とても長く素晴らしい文章を綴っています。

感銘を受けた箇所が多かったため、ほぼ1章ずつ僕なりの感想を簡単にお話したいと思います。

今回は、第1章「ガンと生きる」の中で、感銘を受けた箇所をいくつか抜粋してお話します。

 

 

1⃣ ぼくはあと何回、満月を見るだろう

本書のタイトルである「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という言葉は、1990年に公開された「シェルタリング・スカイ」(監督:ベルナルド・ベルトルッチ・1987年公開の「ラストエンペラー」と同じ監督)に出てきたセリフなのだそうです。

しかも、映画の最後に原作者であるポール・ボウルズが登場して語ったセリフなのだそうです。

とても長いセリフの一節で、全体は以下の通りです。

「人は自分の死を予知できずー/人生を尽きぬ泉だと思う/だがすべて物事は数回起こるか起こらないか/自分の人生を左右したと思えるほどー/大切な子供の頃の思い出もー/あと何回心に浮かべるか/4~5回思い出すのがせいぜいだ/あと何回満月をながめるのか/せいぜい20回/だが人は無限の機会があると思う」

・・・なかなか含蓄のある言葉で考えさせられます。

坂本龍一氏も、当時まだ38歳であり、この言葉を耳にしても、あまり自分のこととしてピーンとは来なかったそうです。

しかし、晩年ガンを患ってからは、急にその言葉が現実味を帯びてきて、死についても自然と考えざるを得なくなったそうです。

僕自身も15年ほど前に末期ガンを患った経験があり、この本のタイトルを目にした時、他人事とは思えない真実味を感じました。

 

2⃣ 最悪な精神状態の中での演奏

坂本龍一氏は2014年に発症した中咽頭ガンは寛解したのですが、2020年6月にニューヨークの病院で「直腸ガン」と診断されてしまいます。

更に同年12月の日本の病院での検査で、直腸ガンが肝臓やリンパにまで転移していることを告げられました。

そして、その時の主治医からこう告げられたそうです。

「何もしなければ余命は半年ですね」

その他様々な絶望的とも思える断定的な診断を下され、ショックで落ち込んでしまったとのことです。

僕の場合は、主治医から妻と一緒に診察室に呼ばれ、簡単な説明の後、僕だけ病室に戻るように言われ、妻だけが残り、坂本龍一氏と同じような絶望的とも思える診断内容を告げられたそうです。

坂本龍一氏より更に深刻な内容で、このままでは「余命2ヶ月」だと言われたとのことでした。

僕は当時直接言われたわけではありませんが、病室に戻ってきた悲壮な顔をした妻の顔を見て、おおよその察しがつきました。

しかし、坂本龍一氏はこのような絶望的な診断内容を直接言われたわけですから、本当に強く落ち込んだであろうと、深く同情いたします。

しかも、翌日はオンラインのピアノ・コンサートを控えていたわけですから、想像を絶するツラさだったと思います。

最悪な精神状態の上に、映像を使うためにかなりツラい演奏環境だったらしく、その撮影監督もかなり厳しい人だったそうです。

そのピアノ・コンサートはのちに音源化されてリリースされた「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020」ですが、僕もオンラインで観ていました。

素晴らしいバーチャルな映像を施したコンサートで、真剣にピアノを演奏する坂本龍一氏の姿はとても末期ガンとは思えない感じでしたが、実際はこのような悲壮極まりない状況だったのですね。

3年以上経って、坂本龍一氏も亡くなってしまった現在ではありますが、本当に心から「お疲れ様!」と言ってあげたい気持ちになりました。

 

3⃣ 病院食の不味さ

坂本龍一氏も指摘していましたが、病院食というものは、どこの病院も本当に不味いです。

僕は今まで末期ガン・心房細動・飛蚊症を患って、様々な病院に入院し、病院食を食べ続けてきましたが、美味しい病院食を食べたことはほとんどありませんでした。

飛蚊症手術で入院した横浜の深作眼科だけは別でした。この病院の病院食は高級料理店並みの美味しさでした!)

健康管理などいろいろとあるのかもしれませんが、極端に塩分を控えているのか味が薄すぎてほとんど味がしません。

そして、どんな料理でも冷えてしまっています。カレーやシチューなど出ることがありますが、冷えてしまって興覚めと言った感じです。

そして、どうしたらこんな料理を思いつくのだろうかと言わざるを得ない、わけのわからないメニュー・・・

坂本龍一氏も本書で「どうやったら、こんなに不味い料理が作れるのかと思うくらい」と吐き出していました。

家族にわがままを言って、ウナギやカツ丼を差し入れてもらっていたそうですが、僕も病院側に内緒でおにぎりや惣菜・アイスクリームなどを家族に差し入れてもらっていました。

病院食のくせに、これで栄養が足りるのか心配で、妻は毎日カリウムなどがふんだんに入っているトマトジュースも差し入れてくれました。

 

長くなってしまいましたので、続きは次回のブログで!

 

休職中の5回目の精神科受診~復職を決める重要な日 その2

K先生の要請で、妻が入室し、診察が始まりました。

前回からの続きです。

 

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「この3週間ほどの状況ですが、いかがですか?」

K先生から尋ねられ、僕の方から口火を切って答えました。

「晴天の日に自然の多い公園などを散歩などしたりすると、とてもメンタルの調子は良くなります。近所の公園を始め、立川の昭和記念公園・世田谷の砧公園・鎌倉などに行きましたが、どの時もとても調子が良かったと思います」

「でも、雨など降っていて、空が鉛色となって天気が悪く、暗い時に家に閉じこもっていると、メンタルの調子が非常に悪くなります」

「天気が悪くなくても、夕方の黄昏時になると、たいていメンタルの調子は悪くなってきます。このような傾向は以前からありましたが、以前より強まってきているように感じています」

「メンタルが絶不調になった時は、何をやってもダメで手につかず、死にたくなるほど落ち込んでしまう傾向になります。そういう時に処方していただいた不安を和らげるリーゼを飲むのですが、正直効いている感じがしません。前回の診察で先生がおっしゃったように、抗うつ薬を飲むように変えた方が良いのでしょうか?」

 

ここまで話して、K先生は腕を組んでしばらく上を向いて、考え込んでしまいました。

やがて口を開き、こう質問してきました。

「夕方だけ調子が悪くなるということが気になりますね。うつ病の特徴としては周期性というものが挙げられます。外出した時の夕方ころも調子が悪くなりますか?」

僕は答えました。

「いえ、外出した時の夕方ころは、そのような症状は現れません」

「1月・2月ころにこのような症状が起こった時は、よくある典型的な『冬季うつ』ではないかと自分なりに思っていたのですが、3月・4月と暖かくなって日が長くなっても症状が治まらず、かえって悪くなってきているので、これは違うのではないかと思うようになりました」

K先生はこれには答えず、更に質問してきました。

「以前、音楽や読書が好きだと言っていましたが、それらのことは楽しめていますか?」

僕は答えました。

「普段は楽しめていますが、夕方ころなどいったんメンタルの調子が悪くなると、そういうことも楽しめなくなってきます」

 

再びK先生は腕を組んだまま、しばらく考え込み、こう答えました。

「典型的なうつ病の症状ですと、好きな事を楽しめなくなります。リラポンさんの場合、普段は楽しめているということなので、典型的なうつ病の症状とはいえないと思います」

「但し、在宅時の夕方ころだけ気分が落ち込むということが気になります。人間誰しも夕方ころになると疲れてくるので、疲れが原因とも考えたのですが、そうとも言い切れないところがあります・・・」

 

また腕を組んで考え込み、妻に向かって言いました。

「奥様から見て、ご主人様の普段の様子はいかがですか?」

妻は言いました。

「確かに在宅時の夕方ころになってくると、気分の落ち込みが激しくなってくることは見受けられます。その時間帯はよくボードゲームをやっているのですが、主人は負けが込んでくると、輪をかけて落ち込みが激しくなってきます」

「なので、そういう時はすぐに寝るように言って、さっさと休ませます。足裏のマッサージなどをすると、すぐに眠ってしまいます」

「あと、私が気になる点としては、自分から鎌倉に行きたいとか外出したいと言い出して、自分から誘ってくることです。私から誘うことはあまりありません」

「もし、うつの状態がひどければ、そういう風に自分から誘うことはないと思います」

 

腕を組んで上を向きながら、妻の話を聴いていたK先生が、僕に質問してきました。

「奥様のお話を聴く限り、やはり典型的なうつ病の症状とは言い切れないとは思います。そこで、もう一度質問ですが、症状としては夕方ころになって暗くなってくると、ただ気分が落ち込んでくるということでしょうか?それとも夕方ころでなくても常に強い不安の症状はあるのでしょうか?」

僕は答えました。

「確かに夕方ころ暗くなってくると気分は落ち込んできますが、それだけではなく常に強い不安感はあり、両方あると思います」

 

僕の話を聴いて、少し理解できることがあったのか、K先生はこう切り出してきました。

「それであれば、ノルアドレナリン(ストレスを受けた時に発生する脳内物質)の量の調整を図るために、抗うつ薬の「アルジロン(?よく聞き取れませんでした)」を飲んでみることを試してみることをお勧めします」

 

K先生にこう言われて、今まで処方してもらって飲んでいた薬のこと、睡眠のことについて話しました。

「リーゼは毎日2回(起床時・就寝時、その他メンタルの調子が悪くなった時)、睡眠剤のロゼレムも就寝時に必ず飲んでいます。そのせいか睡眠は改善傾向にあり、寝つきも良くなって、毎日平均7時間から8時間は眠れています。ただし、中途覚醒は必ず毎日1・2回はあります」

「あと、お話したい事としては、週に1・2回は必ず不安感が強くなる日があり、3・4時間しか眠れない日が発生します。実は今日も5時間半くらいしか眠れませんでした」

すると、これらのことについてはあまり意に介さないようで、こう答えました。

「調子が悪い日が週に1日くらいあるのは特に問題ないかと思います。リーゼという薬はうつ状態に落ち込んだ症状を改善する効果はありません」

「なので、より鎮静効果のあるワイパックス抗うつ薬であるアルジロン?の服用をお勧めします。ただし、両方同時に服用すると、どちらの効果があったのかわからなくなってしまうので、まずはワイパックスを2週間ほど飲んでみて様子を見ることをお勧めしますが、いかがでしょうか?」

僕「それでお願いします」

 

ワイパックス」は一番最初の初診時に処方されて飲んでいたのですが、
鎮静効果が強すぎると感じたため、約2週間でリーゼに変えたのでした。

 

そして、先生は言いました。

「まずワイパックスをこれから2週間飲んでみて様子を見てみましょう。そして、2週間後の5月11日の診察で、その後抗うつ薬のアルジロン?の服用を開始するかどうか判断しましょう」

「そして、その時の状態を診断して、復職を認める診断書を発行するか、まだ休職を継続した方が良いとする診断書を発行するか、判断しましょう」

このK先生の言葉を聞いて、僕も妻も安心しました。

そして、2回目の傷病手当金支給申請書の記載の依頼を先生にお願いして、診察室を後にしました。

次回の診察は2週間後の5月11日の午後1時50分となりました。

復職するか、休職を延長するか、大詰めの時が迫ってきたのでした。

 

(次回に続く)

 

 

 

 

休職中の5回目の精神科受診~復職を決める重要な日 その1

休職してから3ヶ月半あまりが経ち、僕はそろそろ今後の復職に向けた進路を決める必要がありました。

前回4月6日の受診日以降のメンタルの状況や体調はとても良いと言えるものではなく、むしろ以前より不安定さが増していました。

しかし、生活上の不安もあり(傷病手当金というものは申請してから審査が下りるまで1ヶ月以上かかるらしく、しかも正規の給与額の60%程度ということで、あまり当てにできるものではないようです)、いつまでも休職しているわけにもいかないと、心に焦りが生じ、そういったこともメンタルの不調を増幅させているのかもしれません。

とりあえず、この約3週間程度の状況をきちんと先生に伝え、それに対する先生の見解を聞くため、ノートにざっとまとめた後、スマホのメモ欄にきちんとまとめておきました。

そして、翌4月27日、休職中の5回目の精神科受診に、妻と一緒に向かいました。

前回からの続きです。

 

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緊張していたのか、4時間半くらいしか眠れず、電車に乗っている時、クリニックまで歩いている時も、ストレスというかプレッシャーが重くのしかかり、非常にメンタルは悪い状態でした。

約束の時間よりだいぶ早めの40分くらい前に到着したのですが、クリニックはそこそこ混んでいたのか、約束の時間を10分ほど超えて、名前を呼ばれることになりました。

 

名前を呼ばれて、兜の緒を締める思いで、診察室に入っていき、軽く挨拶をして、さっそく質問事項などをまとめてきたスマホのメモ欄を開いて、席に座って、スタンバっていました。

すると、K先生は「ご家族の方もいらっしゃるのであれば、同席していただくことは可能ですか?」と言い出しました。

妻も同席して診察を受けるのは、2回目になります。

僕としては、僕の話だけではなく、客観的に僕を見ている妻の話も聞いた方が、よりK先生が判断しやすいだろうと思い、喜んで妻を呼び寄せました。

 

そして、妻が入室し、診察が始まるのでした。

 

(次回に続く)

 

休職中の生活 その6

4月6日に精神科の診察を受け、次回4月27日の診察はいよいよ復職に向けた話し合いになるぞ!と覚悟を決めた気持ちとなり、何かと力が入っていました。

前回からの続きです。

 

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K先生に書いてもらった傷病手当金支給申請書と自分の書いた書類をレターパックに収め、2日後に郵便局から会社へ発送しました。

そして、徐々に早寝早起きを進め、日々のルーティンにしていることをより効率的に進めて、朝散歩もなるべく朝早い時間に出来るよう、工夫しようと考えていました。

また、4月14日には武田鉄矢氏率いる海援隊のライブを観に行き、明るい太陽の日差しが照り付ける中、鎌倉に行ってお寺や神社巡りで長時間歩いたり、立川の昭和記念公園や世田谷の砧公園などの大きな公園も長時間歩き回ったりして、セロトニンをたっぷり補給し、体力づくりにもかなり励みました。

 

そんなこんなの比較的張り切っていた毎日を送っていましたが、人生とはなかなか自分の思惑通りにうまくいかないもので、問題が発生していました。

それは、以前から傾向はあったのですが、夕方頃、日が落ちてくる黄昏時になると、急にメンタルが落ち込み始めてくるのです。雨が降っていたり天候が悪い時はもう最悪で、メンタルは絶不調となり、何をやってもダメで手に付かず、死にたくなるほど落ち込んでしまう傾向が以前よりより強まってきたのでした。

妻も心配しており、こういう時に不安を抑えるリーゼを飲んでも効いた感じが無く、前回の診察の時にK先生が話したように、少し強めの治療として、抗うつ薬を飲むことに変えた方が良いのではないか、そう考えるようになりました。

 

また、この期間は、スマホやパソコン、ブルーレイレコーダーなどの不具合が多く発生して、機械ものが好きな僕としては、これらの不具合もメンタルを悪化させていた原因だと思っていました。

 

とりあえず、受診日の前日、5月中旬頃の復職に向けて、今現在不安に思っていることを「一人合宿」という感じで、頭の中の考えを正直にノートに書き散らしました。

それを、あらかじめ「先生への質問事項」として、スマホのメモ欄にまとめておき、何度も見直しました。

 

翌日は今後の復職に向けた進路を決める大切な受診日です。

なかなか心に重くずしっとのしかかり、非常にメンタルの調子が悪い日となりました。

 

翌日の診察の結果につきましては、次回のブログにてご報告いたします。

 

 

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その3

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

前回からの続きです。

 

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老害」の話が終わり、武田鉄矢氏はステージからいったん去って行きました。

千葉氏と中牟田氏はその場に残り、前回・前々回とは構成が違って、初めて2人だけのトークとなりました。

(僕が参加したライブの中では初めてでした)

 

まず、千葉氏がボーカルを取って、「グッバイロンリー」という曲を二人で演奏しました。

この曲は僕は初めて聴いた曲でした。CDにも入っていませんでした。

千葉氏のボーカルはとてもライトでさわやかな歌声で、清々しさを感じさせるフォークソングといった感じでした。

曲が終わると、千葉氏が口火を切って話し始めました。

昔からイーグルスが好きだったらしく、レコードやCDを集めていたらしいのですが、最近CDショップに行ったら、イーグルスの5枚組CDボックスがあったとのことでした。

「こんなCDボックスがあったんだ!これは買っておかないと!」

そう思った千葉氏は喜び勇んで、すぐに購入し、ルンルン気分で帰宅したそうです。

一通り聴いた後、CDラックに収納しようとしたら、なんとすでに同じものがあったのだそうです。

結局、そのCDボックスは仕方が無いので、中牟田氏にあげたとのオチでした。

 

話が終わると、今度は中牟田氏がボーカルを取って、「自画像」を二人で演奏しました。

この曲は前回・前々回共に歌われた曲で、マイナーな曲調ながらとても良い曲でした。

曲が終わると、また千葉氏が話し始めました。

今度はユニクロに行った時の話で、ミック・ジャガーのTシャツがあり、これも喜び勇んで購入したのですが、MサイズのところSサイズを買ってしまったとのことでした。

しかもMサイズの棚の真ん中あたりのTシャツを引き抜いて購入したのに、帰宅してからそれがSサイズだと気づいたとのことでした。

結局、これもまた中牟田氏にあげたとのオチでした。

そんな二人の話に会場はささやかな笑いの渦が起こりましたが、まあ二人としては頑張ったのだと思います。

 

小ぶりな市民会館でしたが、音響はとても良かったと思います。

 

「自画像」の演奏が終わり、武田鉄矢氏が再びステージに帰ってきました。

前回も話していましたが、この曲「自画像」は、中牟田氏が自身の母のことを歌った曲なのだそうです。

病弱なお母さんだったようですが、息子のことをとても心配していたようで、武田鉄矢氏にいつもこう言っていたそうです。

「うちの息子、変なことに誘わないでね・・・」

武田鉄矢氏のお母さんは正反対で、とても身体は丈夫だったようで、

「それぞれにみんなお母さんのタイプは違うし、歌う歌も違うよね」

と言って、デビューして最初に大ヒットした、武田鉄矢氏が自身の母のことを歌った「母に捧げるバラード」の演奏が始まりました。

 

曲が終わると、前回も話していましたが、友人の南こうせつ氏のお母さん、そして大親友らしい吉幾三氏のお母さんの亡くなる時の話をして、また会場は大爆笑の渦に巻き込まれました。

南こうせつ氏のお母さんが死ぬ間際に言った言葉は、

「本当はお父さんのことは好きではなかった・・」

これを聞いた子供たちは愕然とし、長男は

「お母さん、もういいじゃないか!もう冥土にいくんだから」

と狼狽したそうです。

対して、吉幾三氏のお母さんが死ぬ間際に言った言葉は、

「パンツを履く暇が無かった・・」

すでに亡くなっていたお父さんは子どもたちの面倒は全く見なかったくせに、子作りだけは一生懸命だったとのことでした。

 

吉幾三氏は、最近自身のYouTubeで、国会議員の長谷川氏が飛行機の中でとても失礼な不遜な態度をとっていて、スチュワーデスなどをとても困らせていたことを暴露して、長谷川氏を以前から苦々しく思っていた人たちをはじめ、いろいろな人たちに賞賛されました。

武田鉄矢氏がその件について話すことを期待したのですが、まあこういったことはなかなかライブで話すのは難しいでしょうね。

 

続いて、「思えば遠くへ来たもんだ」「新しい人へ」を演奏した後、大きく手を振り、ステージを去って行きました。

しかし、会場のアンコールのコールに応えて、すぐに再登場し、相田みつを氏の「道」を朗読し、「スタートライン」を熱唱しました。

そして、会場はものすごい拍手の渦となり、3人は肩を組んで、大きく手を上げ、深々と頭を下げた後、名残惜しそうに振り向いて手を振りながら、ステージを去って行きました。

 

今回も武田鉄矢氏のトークは絶妙でした。もちろん曲も良かったです。

 

ライブ会場を出ると、たくさんの人がなにやらメンバーたちが出てくるのを待っていたので、僕たちも少し待っていたら、白い普通のバン(日産のノアでした)が建物エントランス前に横付けされました。

すると、ほどなくして私服に着替えた武田鉄矢氏が出てきて、そそくさと乗り込み、続いて中牟田氏も出てきて、同じくすぐに乗り込みました。

ステージ外で見ると、本当に普通の人という感じでした。

千葉氏は出てこなかったので、自身で帰ったのではないかと思われます。

 

今回も本当に楽しいライブでした。

また機会があったら、ライブに行ってみたいと思います。

 

セットリスト

①そんぐふぉおゆう

贈る言葉

③JODAN JODAN

涙そうそう

⑤ダメージの歌

⑥恋不思議

⑦あした天気になれ

⑧グッバイロンリー(ボーカル:千葉氏)

⑨自画像(ボーカル:中牟田氏)

母に捧げるバラード

⑪思えば遠くへ来たもんだ

⑫新しい人へ

アンコール

相田みつを「道」朗読~スタートライン

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その2

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

前回からの続きです。

 

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海援隊の代表曲「贈る言葉」の演奏が終わった後、前回も前々回も演奏した「JODAN JODAN」の演奏が始まりました。

武田鉄矢氏の話によると、この曲は「贈る言葉」(1979年11月リリース)の直前の曲で、「贈る言葉」がリリースされる4ヶ月前にリリースされたのだそうです。

この曲は「贈る言葉」とは全く違うタイプのコミカルな曲調で、歌詞も人間の日常生活によくある恨みつらみや妬み・怒りなどを表した、けっこうネガティブでダークな内容です。

そんなネガティブな内容を、実にコミカルに風刺した感じにしています。

そして、サビの「JODAN!JODAN!JODAN!」の部分を、アルファベットの形通りに腕を動かす振付があります。

武田鉄矢氏によると、当時西城秀樹氏の「YOUNG MAN」が大ヒットしていて、それに対抗して、こういった振付を考え出したのだそうです。

そして、武田鉄矢氏はこうも言いました。

「皆さんお気づきのように、この曲、『贈る言葉』とは全く違うタイプの曲で、とてもマイナーで、こうネガティブな感じの曲なんですが、何かすごく素晴らしいというか代表曲のような曲が出来る前というのは、こんな曲が出来るもんなんですよね・・」

「まあ、この曲が出来たから、次に『贈る言葉』という曲が出来てブレイクしたんだと思っているんですよ」

なるほど・・人生そんなものなのかなあ・・

他のアーティストや作家でも同じようなことを言っていた人がいて、そういうものなのかもしれません。

 

開演前のステージに置かれたメンバーのアコースティックギター

 

涙そうそう」「ダメージの歌」と続いたところで、また武田鉄矢氏のトークが始まりました。

「僕は60歳を少し過ぎたころに、心臓の病気を患って4週間くらい入院したことがあったのですよ。その時に「そうだ病院へ行こう」という曲を作りました」

「70歳を過ぎて、先ほど演奏した『ダメージの歌』を作りました」

「僕はねえ、年相応の曲を作っていきたいし、これからもそうしていきたいのですよ」

「よく他の歌い手さんで、自分の若い頃に作った恋愛の曲を歌ったりする人がいるんですが、やっぱり70代や80代でそういう歌を歌っても、恋愛の歌に聴こえないんですよね」

「『もう、終わーりーだね』って、そのまま足元が崩れて倒れてしまったりしてね」

ある有名なJ-POPのアーティストを揶揄したブラックジョークでしたが、会場は大爆笑でした。

 

「それでね、今度の新曲は『老害』って曲でいこうと考えています!」

会場はまたも大爆笑でしたが、僕は何のことかわかりませんでした。

後で妻に聞いたところ、「ワイドナショー(フジテレビ)」という番組に出演したらしいのですが、その時に話題になったガーシー氏の件についてのことだったようです。

ガーシー氏は自身のYouTubeでいろいろな芸能人をあることないこと言って繰り返し脅迫し、国会議員になったもののこれらのことが悪質だとして、除名処分になったうえ、暴力行為法違反(常習的脅迫)などの罪に問われ、懲役3年、執行猶予5年として有罪判決が確定しました。

そのことにつき、武田鉄矢氏は「ただ、悪口を言っただけなんじゃないの」というようなことを言ってしまいました。

これについて、ゲストだった元AKB48などに所属していた指原莉乃氏の逆鱗に触れて「それは悪口を言っても謝れば済むというような昭和的な考え方ではないのか」「それはある種『老害』だと思います」というようなことを言ったそうです。

今回のステージで、武田鉄矢氏は本件について詳しいことは何も言いませんでしたが、ちょっとこれは「失言」かなあ、と僕も思いました。

ただ、こういったビミョーなことで笑いを取る武田鉄矢氏は大したものだと思いました。

老害」という曲が出来たら、ぜひ聴いてみたいと思います。

 

長くなってしまったので、続きは次回のブログで!

 

 

 

海援隊「トーク&ライブ2024」立川市市民会館 たましんRISURUホール その1

先日2024年4月14日、俳優の武田鉄矢氏率いる海援隊立川市市民会館 たましんRISURUホールで行われたライブを観に行ってきました。

昨年2023年4月の日本橋三井ホール、9月の関内ホールに続いて、3回目の参加となりました。

 

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日本橋三井ホール関内ホールのライブともども、あまりにも武田鉄矢氏のトークが面白く、海援隊の曲も気に入ってしまい、妻も機会があればまた行きたいと常々言っていました。

そこへ、ちょうど自宅周辺エリアから近い場所でのライブがあることがわかり、すぐに申し込んで参加することとなりました。

 

今回も武田鉄矢氏のトークを中心に、とても楽しいライブとなりました。

 

今回もほぼ武田鉄矢氏のトークが中心で、正直トークの内容はいつもとそれほど変わらないのですが、やっぱり本人の口から直接聞くと、思わず爆笑してしまいました。

他の方々も何度も参加している方だと思いますが、きっと同じ話でも何度も笑ってしまうのだと思います。

会場全体で爆笑していました。

 

開演時間は午後2時半からですが、ほぼ時間ピッタリに3人がステージに入ってきました。

3人とも70代ですが、元気いっぱいという感じでした。

「やあやあ、みなさんわざわざここまでお越しいただいてありがとうございます。お元気ですか?」

武田鉄矢氏の呼びかけに対して、最前列に座っていた若そうな眼鏡をかけた男性が元気な声で、

「今日は僕の誕生日です!」

と答えたので、

「そうなんだ!ところで何歳になったのですか?」

「43歳です!」

とその男性は答え、そんな感じで会場の観客たちと何気ないやり取りをして、1曲目の「そんぐふぉあゆう」の演奏が始まりました。

 

今回の席は、1階の13列目のまさにど真ん中で、武田鉄矢氏を中心にメンバーの様子がよく見えました。

 

2曲目は海援隊の1980年の最大のヒット曲にして、かの超有名な人気学園ドラマ「3年B組金八先生」の主題歌である「贈る言葉」の演奏が始まりました。

今回は始まりのギターのイントロがいつもと違う感じでしたが、この曲は何度聴いても遠い過去である自分の小学生時代を思い出して、ジーンときてしまいます。

 

曲が終わった後は、毎回話しているこの曲が出来た成り立ちの話となりました。

以前のブログでもお話しましたが、この曲はとてもさわやかなメロディでジーンと来る歌詞ではありますが、実は全然そんなことは無い、若き日の武田鉄矢氏の大失恋の話が元になったとのことでした。

福岡の女性はいい時はとても可愛いのですが、いったん関係性が悪くなると、とてもキツイ性格になり、かなりキツイ言葉を浴びせかけてくるのだそうです。

ある居酒屋で突然別れ話を持ちかけられて、突然の話に武田鉄矢氏がすすり泣いてしまうと、ひと言

「女々(めめ)しか!」

と言ったとのことです。

そして、席を立って出て行こうとする彼女の腕をグッと握って引き留めようとしたら、更にひと言

「大きい声出すわよ!」

と言われて、さすがに自分が犯罪者扱いされたように感じて拍子抜けし、即座にあきらめたのだそうです。

ただ、ここで自分が偉かったのは、決して彼女を追いかけなかったことだったそうです。

ここで追いかけるかどうかで、人間性や情景が全く変わってしまい、「ストーカー」となるかどうかの分かれ目になるので、そうならなかった自分が本当に偉かったと強調していました。(これは毎回強い口調で話しています)

 

まあ、この話も以前のブログで何回もお話しておりますので、今回は新たに聞いたお話をご紹介したいと思います。

 

1⃣ 「幸せ」とは?

 武田鉄矢氏は娘さんが2人いる4人家族だそうです。

まだ娘さんが小さかった頃、4人で夕ご飯を食べていたのですが、娘さんはとてもお腹が減っていたのか、あっという間に食べ終わってしまったのだそうです。

まだ食べている武田鉄矢氏をなにやらうらめしそうに見ていたので、「どうだ、これ食うか?」とおかずのコロッケかなんかをあげたのだそうです。

すると、にんまりと満面の笑みを浮かべて、とてもうれしそうに食べたのだそうです。

その娘さんの姿を見て、武田鉄矢氏はとても幸せな気持ちになったのだそうです。

「人間て不思議なものですよね・・自分が完全に満たされた状態より、相手が幸せで、自分が少し幸せでない、こういう状況の方がとても幸せを感じるのですよね・・・」

「ホント、人生というか、幸せというのは、実に哲学的だなあ、と感じた瞬間でしたね」

これはなかなか含蓄のある話で、けっこう共感しました。

確かに自分が欲しいものをすべて手に入れ、食べたいものをお腹いっぱいに食べた、大満足の状態より、なにか自分のものをある程度犠牲にして相手に与えて、相手が喜ぶ姿を見る方が、なぜか幸せを感じることが多いような気がします。

この辺は、精神科医で作家の樺沢紫苑先生も言っていましたが、脳内物質が関係しているのでしょう。

自分自身が満足することはドーパミンの作用で長続きはしませんが、相手が喜ぶ姿を見るのはオキシトシンの作用なので、なかなか逓減することはありません。

なかなか考えさせられました。

 

2⃣ 家族との絆とは? 商売とは?

武田鉄矢氏は5人きょうだいの末っ子ですが、お姉さんが3人いたそうです。

その三女であるお姉さんは、神戸でぼったくり?のスナック(武田鉄矢氏がそのように言っていました)を経営していました。

ところが1995年の阪神淡路大震災で、店は潰れてしまったそうです。

意気消沈して命からがら故郷の博多に帰ってきたお姉さんは

「もう神戸はコリゴリや!これからは博多で生きていく!」

と半べそを搔きながら言ったそうです。

ところが、それを聞いた武田鉄矢氏のお母さんは厳しい口調で

「何を言うとんねん!今すぐ神戸に戻れ!」

と厳しく叱ったとのことです。

(母ちゃんこそ、何を言うとんねん、どういうことや?)と思っていると、

お母さんはこう言ったのだそうです。

「小商売やって生きてきたんだったら、店を閉めるとは何事や!」

「小商売やっている商売人だったら、店なんか閉めずに、何が何でも看板掲げて店を開けてろ!」

しかし、震災で建物は傾いており、看板を掲げるどころではありません。

「看板が無いんやったら、提灯でもぶら下げてろ!」

こう言って、娘を神戸に追い返してしまったそうです。

 

まあ、これを聞いて、なんかスゴイお母さんだなあと、ちょっと引いてしまいました。

普通だったら、震災でツラい目に遭った娘を慰め、しばらく故郷の博多で一緒に暮らすことを提案し、援助するのが家族であり、親子ではないかと思うのですが、まあいろいろな人がいるもんですね。

このお母さんも、働かないでギャンブル狂いのどうしようもない亭主を支えながら、小さなタバコ屋を経営して、5人の子供たちを育て上げた商売人であり、苦労人ですから、こんな言葉が出るのでしょうかね。

 

長くなってしまったので、続きは次回のブログで!